「信用」と「心理的安全性」:社会学の根本;個人に還元できない何か?を私たちは持つのか?

 

 村瀬俊朗さんのエイミー・C・エドモンドソン「恐れのない組織 『心理的安全性』が学習・イノベーション・成長をもたらす」の解説を読んで、刺激を受けた。

『恐れのない組織』の「解説」を公開します。|英治出版オンライン @eijionline #note
https://eijionline.com/n/n6f2339131e64

 良治は大学で社会学を専攻した。その際、どうしても納得しきれなかった問いに、個人の意識の集合を「社会」と考える方法論と、嫌そもそも「社会」には個人に還元仕切れない何か?があり、それを解き明かすのが社会学だという考え方の対立があった。
 社会学の創世期で言うと、マックスウェバーは前者に近く、エミール・デュルケームは後者に近い。エミール・デュルケームが挙げた後者の概念はアノミーだ。有名な自殺論で、社会的な変動が大きい時、社会規範の揺らぎに影響されて、自殺が増えると主張した。
 直感として、後者だろうと思ったからこそ、社会学を専攻した訳だが、実際に卒論で取り組んだ方法は前者だった。どうしても後者のような社会に特有な何か?を考え出すことができず、アンケートを作成し、それを統計処理したというスタイルで書いた。

 そして、2005年頃学んだコーチングを通じて、そもそも人は、自分自身の願いもよく分かっていないということを痛感した。だから、振り返りを通じて、内省していくと、やっと何を求めているのか?に気づく可能性が高まる。
 逆に言えば、それぐらい、内なる泉に繋がるのは難しくて、どちらかと言えば、外側に同調しやすい。

 これは、少し前にベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」に、人類の特徴として、何もないものを信じてしまう力が上げられていた。
 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」によると、人類の特徴の一つに、群れを作る動物という側面がある。

そして、竹田 青嗣「中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)」で、サラリと書いてあるのだけど、すごく深いことが書いてある。
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人類がどこから発生したかといった問題とは違って、実証でだんだん確かめられていくような問題ではない。事実の問題としては、どこまでも、蓋然的な答えしか出ないということ、これが一つ。
つぎに、こういう「心」の問題は、科学的実証の問題とは「本質」が違っていること。つまり、むしろわれわれの心のうちの「了解と納得の問題」、「ああ、こうだったのか」という自己了解の問題だということです。
 

「確実なものと、確実でないものとの区別の根拠を、自分は自分の中にもっている」ということです。
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物理学の成功から、社会学はどうしても事実レベルの話で展開することへの憧れがある。
いい悪いとは別に、例えば、年収いくらいくらの人や、○○って属性を持っている人は、△△ってことを起こしやすい なんて統計処理で有意が出ると喜ぶ傾向にある。

大学生の当時、うまく表現できなかった違和感はここにあった。

 村瀬俊朗さんが感じた違和感は、多分これに近い。なぜ「信用」という個人に関わる属性の話を、「心理的安全性」という集団特有の何か?として、別な概念化する必要があるのか?

 竹田青嗣さんが言うように、私たちは、この場に「心理的安全性」を持っているか?いない?の根拠を持ち、振る舞っている。厄介なことに、それは通常の事実レベルとして計測できるものではなく、「どう人はそう確信するか?」の問題で、何を測るべきかが違うため、これまでうまく説明出来なかった。

 学習・イノベーション・成長をもたらす ためには、その集団が「心理的安全性」を個々のメンバーに確信させる必要がある。

 いくら個々人が内省をして、自分のニーズに気がついたとしても、「この集団は安全じゃない!」と確信すると、集団の罠に落ちて、多様性を活かすことができない。

 そこで、集団をコーチングする関係性コーチング(=ORSC)が必要となった。
どうして私たちは私たちになると、「心理的安全性」がないと確信してしまうのか?

逆にそれが明示化され共有化されれば、「じゃあ私たちは本当はどうしたいのだろう?」と、その確信を変更することが可能になる。

 つまり、群れて無いことをあると信じる傾向にある人類だからこそ、ハッキリと自覚さえできれば、「本当はどうしたいか?」に向けて、変化を起こす可能性も高まる。意図が現実化するのだ。