新年の目標設定で大事なこと

 コーチでありながら目標設定というのが極めて嫌いで、先の事を考えて計画するのが好きじゃ無い。先の事を考えて計画するのは、未来への恐れから、未来に生じるであろう苦痛を回避するために今何をしたらいいか?はよく考えている。だから、未来に向かって明るく何か増幅させるという思考が欠如している。

(と言いつつ、コーチングを学んでから、時折間欠泉のように、実験的なワークショップをやってみたくなり、こちらはそそくさ、人に言われずとも嬉々としてやっているなぁ。うーん、矛盾している。)

 で、ここ数年やっぱりそういう志向性だと、「未来に因を投げる」なんてことはとうてい出来ないので、年初に目標を立ててみるワークショップに、何度かトライしている。

 でも、なんだかモヤモヤする違和感は残ったままだった。

ケリー・マクゴニカル「スタンフォードの心理学講義人生がうまくいくシンプルなルール」日経BP社 2016.10.
https://honto.jp/netstore/pd-book_28088061.html

---引用開始------------ 

「新年の目標設定」ルール

新しい年に「どう成長したいか」を考える
昇進や仕事上の業績といった「何らかの成果を達成すること」を目標にするのではなく、「どんな自分になりたいか?」を自分に問いかけてみる。

具体的な行動
 成果ではなく、どんなプロセスで達成できるかを考える。
 成果ではなく、自分のどの部分を強化したらいいかを考える。

p156

---引用終わり------------

とあって、驚いた。

と同時に、あぁそうだったんだ~と腑に落ちた。

問いかけ自体が間違っていたんだ。

達成感が薄いRyoji☆には、いくら成果を並べてもちっとも心が動かないし、重くなる一方。年末に、「これもあれも達成できなかった!」と負の方にばかり意識を向けて、なんでこんな目標たてちゃったんだろうと、心が痛くなる。

「どんな自分になりたいか?」だったら、大体イメージに大きな変化はないので、スッとこれだろうなっていうのが出てくる。

今度から、ここに意識を置いて、目標設定をやってみよう。

*[Coaching]「悩む」と「考える」の違い

 ビジネス書でベストセラーになってる「イシューからはじめよ!」。大分前に買って少し読んで「なるほど」と思いそれっきりになっていた。

https://honto.jp/netstore/pd-book_03347415.html

 今回Facebook上で、FF10(ファイナルファンタジー10)のストーリーとこの本で紹介している 「イシューからはじめよ!」を具体的に関係づけて解説してくれて、「それって日常あるあるだ!」と、やっと腑に落ちた。特に解決の質のベクトル。これって日本風に言えば、道を極める系。でも横軸のイシュー度を考えないで極めるに突き進むことが多い。
イシューからはじめるFF10【前編】
https://ameblo.jp/okada-saiko/entry-12389253395.html
イシューからはじめるFF10【後編】
https://ameblo.jp/okada-saiko/entry-12391307446.html

 うまい例を思い付かないので、戦闘の例で説明してみる。まず現代において、相手を殺す方法としての剣術。素人から達人まで、剣の腕前、マスター度には差がある。これが解決の質のベクトル。
 ところが一歩引いて、「相手を殺す」という解決案を考えると、剣術よりも銃というやり方の方がたやすい。特に自動小銃の殺傷力は圧倒的だ。(第一次世界対戦が塹壕戦になったのは機関銃の殺傷力を乗り越えるだけの技術がなかったから。ここから戦車が実用化された。)だから、「先に何が起きればよいのか?」「そこに向けてどんな選択肢があるのか?」そこをまず考えてから試行錯誤しないと、解決の質を上げていっても、「それ解決じゃないじゃん」となる。

 花王のコストダウンのやり方の紹介を読んで、なるほどと思ったのは、去年考えられる限りのコストダウン策をこうじたけれど、今年また新たな視点でコストダウン策を考えるとあったこと。調達一つとっても去年最適だった方法が今年もよいとは限らない。常に求める最適解は変わってくる というのが印象的だった。
 また、東海村での臨界事故は、作業合理性を上げるため、どんどん合理化していったために起きた。悲しいのは、なぜそんな面倒な手順でやれと仕様に書いてあったのか?現場の人は誰も知らなかったこと。このわざと手間がかかるようにしてあった仕様はウランが臨界に達しないで、高濃度にするために(1)筒状の容器でやる(2)少しずついろんな濃度で蓄積する、の二点が本質だった。そこが現場には伝わってなかった。だから、(1)球体容器に(2)一回に注いでよいとされた量を超えて、注ぎ、臨界事故となった。(発注者~下請け管理者~下請け労働者という構造による、情報伝達の悪さも気になる。)
 会社の仕事も往々にして前年踏襲に傾きがち。ベストじゃないかも知れないが、関係者の合意形成を再構築する手間を考えると、お互い楽なのだ。だから、イシューを考えず、先例踏襲の枠内で、合理化を目指してしまう。問題解決の根本には触れない。

 高校時代のSくんが地学のM先生に「要領が悪い」と言われたのが印象に残ってる。この解決の質とイシューの質の二つの軸で考えると、Sくんは解決の質には熱心だった。真面目で努力家で、一心に取り組んでいた。だけど、イシューの質は考慮していなかった。だから、地学のM先生には、努力していることはわかるけど、点をやるにしても、努力の方向性が悪いという意味で、「要領が悪い」と言っていたのかな?と今なら思う。
 そういうRyoji☆だって決して要領がよい方ではなかった。でも偶然ギリギリの所で、Ryoji☆的イシューの質が高い選択を選んできただなぁと感じる。特にコーチング仲間との出逢いは最大にイシューの質が高い選択だった。

で、改めて読み直して、ドキッとした文章を見つけた。

引用開始
「<考える>と<悩む>、この2つの違いは何だろう?」
僕はよく若い人にこう問いかける。あなたならどう答えるだろうか?

僕の考えるこの2つの違いは、次のようなものだ。
「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること
この2つ、似た顔をしているが実は全く違うものだ。

「悩む」というのは「答えが出ない」という前提に立っており、いくらやっても徒労感しか残らない行為だ。僕はパーソナルな問題、つまり恋人や家族や友人といった「もはや答えが出る・出ないというよりも、向かい合い続けること自体に価値がある」という類の問題を別にすれば、悩むことには一切意味がないと思っている(そうは言っても悩むのが人間だし、そういう人間というものが嫌いではないのだが…)

p4~5

引用終わり


あぁRyoji☆はまさに「悩み」の人だった。問題が解決出来るなんて、1mmも思ってなかった。この「悩む」と「考える」の違いがよく分からなかった。当時のRyoji☆用語では、たくさん「考えていた」から。
コーチング関係で出会う人たちに魅力的な人が多いのは、きっと考えていて悩んでないからだ。
こう思うと、コーチングに出会った頃の衝撃がRyoji☆には世界観を一変させる衝撃だったのがよく判る。何度も何度も、「本当かな?」と考えた。


  解決案が出なければ実行出来ない→やってから学ぶ。失敗から学ぶ

  何をすべきか?→大切なのはワクワク

  言われたことを遵守する→自己組織化。やっているうちに、自然と形になる。

悉くイシューの質を巡る考え方の違いだった。


細谷功地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」」
https://honto.jp/netstore/pd-book_02939343.html

も「コンサルタントの就職試験って大変なんだな~」ととらえていたけれど、「イシューの質が焦点なんだ」と思うと、より「そうだったのか!」と納得がいった。
 つまり、だいたいでいいので、大筋の可能性を詰めてしまうこと。例えば、日本中にある電柱の数。正確な数字を統計から上げようとしたら、地道な作業になるだろう。
それが、1万なのか?10万なのか?100万なのか?ざっくり目当てを立てられるだけで、大まかな規模と方向感はつかめる。それならば、推論可能なのだ。まさに、イシューの質だ。


NVCの4つの原則はシンプル。しかし、一つ一つがスキルがいる。特に三番目のニーズは最難関。言いたいことはわかるけど、ニーズを探るのはとても難しい。それは無理と、自己規制をかけて諦めてることが実に多い。でも、ここに拘ることで、NVCの道は拓ける。

 

なんだかFF10やりたくなって来た(笑)。

変化のプロセス

本郷 綜海さんのスピプロの受講生が課題として「アメブロにブログを書きなさい」となっていて、Facebookの表示上、たびたび上がるので、興味深く読ませてもらっている。

その中でいかにスピプロを受けるまで葛藤があったか?そして、それを打破しスピレプロに参加したか?書いて下さってるブログがあった。

「あぁこの感じ!」と懐かしい。

今でも鮮明に覚えているが、大学4年の時、1年生から参加している野尻キャンプにどうしても参加したかった。しかし、就職は決まらないし、そんな中約1週間近く遊び惚けていいのだろうか?ということがあった。あと、参加するためのお金が工面できなかった。で、父に訴えた。いかにそれがRyoji☆にとって大事で、どうしても参加したのか?
きっと拒否されると思っていたけど、真摯に聴いてくれて、「いいよ」と許可して貰えた。すごい不思議な体験だった。

もう一つ。就職の面接の時になぜか?父を巡る話になったのを覚えている。当時の自分なりに正直に答えたのだが、その時も今も不思議だった記憶が残っている。


スピプロ受講生が書かれる内容があまりにもパターンなので、まとめてみたいのと、じゃあそうした変容はどういう風に起きたのか?を学んで、こうした変容が起きる時に大事なことを学んでみたい。

(1)前史。いかに今まで何かが欠けていると感覚があり、かつ、何をやってもうまくいかなかったか。(Ryoji☆的にはここがぐだぐだ長く、いろんなエピソードがあると、とても共感。何しろRyoji☆も未だにそうな部分が大きいから)

(2)直感が働く。これだ!このスピプロに参加だ!

(3)苦悩。「そうは言っても…」壁(?!)が立ち上がる。

(4)選択の時。どうするか?

(5)行動。(大抵、一大決心をして、勇気をふるって、今までとは違う行動を起こす。)

(6)奇跡!

(7)綜海さんラブ!


大事なのは、真摯に探求する心があるってこと。
苦悩の時間が長いのは、それだけよくわからないけど、「ここじゃない」、「これじゃない」って自分の感覚を掴んでいること。

だからこそ、直感が働く。なんかわからんけど、これだと。

Ryoji☆的には、この当時この感覚は錆び付いて使い物にならなかった。全然直感が働かない(苦笑)コーチングを学び始めて、少しずつ教えてもらって、いろいろ学び参加し始めて、だんだん「これだ!」って感覚が蘇ってきた感じ。
 Ryoji☆的には鬱屈したこれまでの恨み辛みがあって、それが払われないと次に進めなかった。

でも、人間急には変われない。どうするか?

ここが多分従来と今までの違い。
今振り返ると、やっぱり絶望しきったか?じゃないかと思う。
変に未練が残っていると、ウジウジグダグダのまま。
このままじゃ私、変わらない。とにかく藁にも縋る想いで、「何かをしたい!」って腹をくくれるかどうか。



理論的には、条件が揃うから変われるんじゃなくて、そう決めたBeingがあるから変わる。Beingを決めるのは一瞬で出来る。今ここで変わることができる。問題は、それが揺らがず持続的であるには、胆力が必要。慣れてくれば、力はいらないのだけど。

逆にそうし願いごとを言われる立場になって考えるとよくわかる。モジモジぐだぐだしている人からお願いごとされたら、交渉の余地があるのかな?って思う。だってグラグラしてるんだもの。
しかし、「もうこうなんです。」「決めたんです。」となったら、よほどダメ理由がない限り、「いいんじゃない」ってなる。

ここはややこしいんだけど、頼みごとを相手にきいてもらうためには2つ条件がある。一つは腹をくくったBeing。もう一つは伝える技術。この2つが整わないと機能しない。

後者は技術だから教えられるけど、前者はその人が決めるしかない。前者への最大の援助は、見える可能性と、どんなエネルギー状態か?のフィードバックだろうなぁ。

Ryoji☆的には、コーチ仲間の勇気ある一歩に勇気づけられた。臆病者のRyoji☆は理屈的に納得してもなお、その違う一歩が怖かった。だから、先行して踏み出した人の変わりように、「私もあぁなりたい!」って心底思った。
だから、自力って感じより仲間同士のインスパイアが大事って感じる。(もちろん自力でやれる人も多いと思うけど)

理論的には、条件が揃うから変われるんじゃなくて、そう決めたBeingがあるから変わる。Beingを決めるのは一瞬で出来る。今ここで変わることができる。問題は、それが揺らがず持続的であるには、胆力が必要。慣れてくれば、力はいらないのだけど。

後は起こるべきことが起きるだけ。

でも当時のRyoji☆もそうだったけど、余りに必死過ぎて、奇跡が起きたとしか思えないんたよね。

でも、失敗や成功を繰り返す中で、このプロセスが自然体で出来るようになる。最初の一歩こそエネルギーがいる。

まとめると
▼クライアント側
自分の感覚とセンタリングし続けること。なんと言われようが、自分の感覚にYesへ全力。

これまでの蓄積した苦しみを味わい切ること。このままじゃこの苦しみはそのままだとシフトすること。

それまでの、「その願いはかなわない」という思い込みを脇に置き、願いに真っ直ぐな行動を起こす。

▼援助者側
クライアントさんが十分に味わえるスペースと、それを感じ取って大丈夫だよ!って安心安全を提供する。(緩める)

エネルギーがシフトしたのをみてから、「やる」「やらない」を問う。

出来れば練習してから送り出す。

となるかな。


そして、この後長いお付き合いになるのは自己受容。
この新しいbeingとどう関係を創るか?どうしても今までの自分が新しいbeingを攻撃しゃうんだよね(自己内葛藤)(そして、これはまた別の話)

最後にエールを。

http://www.kosonji.com/buddhismepisode/bep22.html
阿含経巻第27 726「善知識経」

ブッダが説かれるお経の中で、短いですけど、この教え。とても好きです。
要するに、善き仲間と共にいるってことは、聖なる道の全てなのだ、と。
綜海さんに出会い。このスピプロ仲間に出会って、共に旅をするってことは
今はまだかも知れないけれど、あなたが目指す道は達成されたも同然。
仲間を信じて、己の旅を楽しんで欲しい。

こうして間接的にFacebook上で、学びを与えてくださった皆さんに感謝。
よき旅を!
(また2つこのお経に関して、書きたいこと出てきたので、それはまた別の話で)

[Coaching]「どうしたいか?」という質問に孕む危険性

コーチから「Ryoji☆はどうしたいの?」と訊かれると大抵苦しくなった。
Ryoji☆の特性として、ウジウジ悩んで、「ああでもない」「こうでもない」としているのが好きだ。
だから、「どうしたいか?」と迫られると、そうした悩んでいる状態はダメで、すぐに何をするか?決断しなさいと迫られている感じがして、とても不快だった。

コーチングにおける原理的な点で言えば、シンプルで、「やる」か「やらない」か「保留する」かの3択しかない。だから、コーチがクライアントさんに迫る時は、「どうしたいか?」ではなく、「やる」「やらない」という2択でいいはずだ。

気になって「コーチングバイブル」に上げられている質問をチェックしてみたのだが、この問いは載ってなかった。
よく5W1Hと言う。「どうしたいか?」はシンプルな問いだから質問例として載っているだろうと思っただけに、意外だった。

昨秋「クリーンランゲージ」を学びに行き、「どうしたいか?」の代わりにこの質問にした方がいいと強く思った。それは、


(And)what would X like to have happen?
(…で、)Xは何がどうなったらいいと思いますか?
「クリーン・ランゲージ入門」春秋社2010.12

創始者のディビッド・グローブさんと、それをモデリングし、クリーン・ランゲージという形でまとめてくださったペニー・トンプキンズさんとジェームズ・ローリーさんへ感謝。


かおりんから「この問いでは主体性が養われないんじゃない?」と質問をいただいた。
実体験からすると、それは杞憂だ。ちゃんと何がしたいのか?この問いに答えることで
省察として把握できる。

敢えてなぜこの質問が「どうしたいか?」に勝るか?説明しよう。

願いって、ある程度形になっているならばハッキリしているので、明示的で言語として語ることができる。その状態(CRレベル)ならば、「どうしたいか?」への問いで、別に問題はない。

しかし、往々にして、願いは曖昧模糊としている。

NVCの4つステップの最後は「リクエスト」。これがめっちゃ難しい。
(1)言語的にアサーション表現が必要。(2)自身のニーズを掴む必要がある。(3)対人関係における恐れと向き合う必要がある。

そもそも願い自体が曖昧で、それを明示的かつ言語表現で言い表すのが難しい。

「どうしたいか?」はCRレベルへの問いかけで、DLレベルにある願いを引き当てるには適さない。

このクリーンの問いの優れているのは、「仮にそれが起きたとしたら」と、ほのかに未来を垣間観るように誘導していること。
「したい」という言語表現には、「今それはできていない。だけど、こうなってほしい」ということを含んでいる。
コーチがクライアントさんとやりとりしたいのは、「やる」「やらない」だけで、それが「できるか?」「できない?」は訊いていないし、興味関心もない。
「やる」「やらない」になった途端、それは、「いつか?」ではなく、「今ここでやる」のだ。

コーチングに出会って衝撃だった一つに、Ryoji☆は「いつかやるでしょう?」と返答したらコーチから「今からここでできることは?」とたたみかけられたこと。その発想がありえなかった。


この問いに変更することで、緩やかに訪れてほしいと願う結果へと焦点が合わさるようになる。できるかどうか?はわからない。でも、起きてほしいこと。


次の学習指導要領で、アクティブ・ラーニングが導入され、先生が生徒へ「あなたはどうしたい?」と尋ねることが増えるだろう。
ぜひ、そこは問いを「(…で、)Xは何がどうなったらいいと思いますか?」へ変更して尋ねるようにしてほしい。
きっと生徒の省察が深まり、自身にニーズを発見しやすくなり、あとは言語表現を磨けばよいだけになっていくはず。

[Coaching]個人のフルフィルメントを支援尽くしてよいのか?

 コーチングに出会ってしばらくして「これってやばくないか?」と感じた事の一つに、個人がやりたいということを基本的に尊重し、促進することだった。実際、「会社辞めます!」って行動する人がいらっしゃって、おおいにビビった。こんなにも一方的に個人のやりたいことを最優先の態度を貫いていいものだろうか?そんなことをしたら、社会秩序を混乱に陥れてしまうのではないか?
それを推奨する立場に立って倫理的によいと言えるのだろうか?

 原理的に言えば、コーチングは焦点化の原則と空白の原則を駆使して、もしやりたいという気持ちがあるならば、そこへ焦点を合わせ、可能性を探っていく。だから、意図が有る限り不可能はない。(客観条件として不可能はあるとしても)やりたいのならjust do itなのだ。

 ある勉強会で「ポジティブ馬鹿になる」と表現されている方がいらっしゃった。けだし名言だと思う。(だからこそ、コーチングにおいては、リアリティがどうか?をキチンとクライアントさんへコーチがフィードバックする態度が大事になる。)

 この10年ほど、これはどう捉えたらいいのだろうか?と悩んで来た。
しかし、この所、ある種吹っ切れた。


それでいいのだ。



 大学時代に専攻していたのは、社会学だった。「この社会をどうしていったらいいのか?」そこへ興味関心があった。デュルケムの考え方だと、私たちは個人を超えた何かを持つ。だから社会学はそれを探求する。個人に還元できない何かがあるという視点。

 最後の方で混乱したのは、そんな社会学にも秩序重視の視点(例えばパーソンズ)と闘争の視点(例えばダーレンドルフ)と理論的にあるということ。言っていることが真逆だし、事柄を受け取ってどうすべきか?も逆になる。当時のRyoji☆には理解の範疇を超えていた。

 2005年にコーチングに出会ってから、徹底的に個人に興味関心が移った。そして、今まで出会ったことのない多様な人たちと出会い、かつ、その行動の軌跡を折りに触れて観察させてもらった。

 一つには、人は秩序を大切にしたいって欲望もまたあるものなんだってわかったこと。
コーチングを学びあう中で内容は個人個人で全然違うのだけど、何か共通の型というか、範囲の中でやっている感覚に襲われた。

 願っている世界像はそれほど大きな違いがなさそうだと感じた。
 どうも欲望の収斂先がある程度限られている気がした。

 一つは、今のRyoji☆は、大学生の頃と違って、組織をどうにかしたいという欲望がほとんど無い。ブッダは、一人一人の人がその道を通ることによって、それがやがて大きな道になるということを信じているよ、と説かれた。ハッキリ大乗の道は自分は取らないとおっしゃったと解釈してる。理を尽くして考えていけば、おのずと辿るべき道は定まる。

 今の日本国憲法も個人の自由を肯定している。社会秩序を優先するのは、限定的だ。(未だによくわからない「公共の福祉」)しかし、逆説的なのだが、こうやって個人の強い権利を保障したからこそ、国富が上がり、秩序もまた安定した。逆に、権威主義的に「社会秩序」を前面に押し立てると、どこかで個人の自由の制限が発生する。それが、不安定さを産む。戦争に向かってゆく昭和の歴史を読むと、いつも暗い気持ちになる。どうも空気のような権威がのしかかって、対話が出来なくなって、どんどん袋小路にはまり込んでいく感じ。だから声を出すのはテロしか無くなっていく。戦争ドラマを見ると必ず口うるさい学級委員のように、秩序を言い立てる集団が現れる。

 一つは、この秩序の元で無ければ生きていけないというのは、幻想だと教えてもらったから。我慢しなければ、生きていけないという恐怖があった。しかし、数々の飛び出した人たちの軌跡を見せてもらって、それは幻想だとわかった。特に、サラリーマンって環境はとてもおかしい。そんなおかしい幻想を永続的と思い込んで執着する方こそ危ないって目を覚ませてもらった。


 これからの時代。AIが私たちの社会を変貌させることはわかっている。その時、人が人として価値があるのはなんだろう?

 フルフィルメントを突き抜けた個人ってとっても人間くさい。あぁこの人ってこうしかありえないなぁって感じる。そこには良さと欠点がない交ぜになった感じがある。それは間違えなく、AIでは到達できない領域だ。そして、そこで人は人として活躍していくしかないと思う。

個人のフルフィルメントが先にあって、それからそれを支援するために組織があるんだと思う。逆じゃない。


書きながら、支離滅裂とは思うけど、言いたかった感覚は言えた感じ。

[Coaching]コーチの責任とは?

コーチの責任って何だろう?

知り合いのコーチが夏にそう題したワークショップを開くと聞いて、グルグル問いが回っている。

思い付くまま吐き出してみる。

一つは、意図的協働関係を最初に取り結ぶことだろう。
この関係性が何を持つために行うものなのか?相互に同意を取る。

一緒になって創っていくとは言え、コーチの責任と言ってよいだろう。
ここが通常の人間関係と違っている点。

カウンセリングだと、クライアントさんが先行して困っている状態があり、暗黙の相互了解として、社会的な健全に行動できるようになるには?という目的が結ばれていると考えられている。

二つ目は、セッション中、クライアントさんが自身の体験にマインドフルネス出来るように場の安心安全に全力を尽くすということだろう。

人は通常自分自身の体験の没入できない。
場の安心安全を保証してくれる人がそばにいる時初めて、自身の体験の微細さを味わい切ることができる。

三つ目は、客観的なフィードバックだ。クライアントさんは今ここでどうあるか?コーチは伝えなくてはいけない。
それはある種、辛い真実をクライアントさんに突きつける可能性がある。
でも、この真摯なフィードバックを提供されることで、クライアントは自己の在りように、内的状態と、外的観察の両方から、迫ることができ、やっとありのままの自分とは何か?に迫る学習のループを手に入れることができる。

訓練されていない人によるフィードバックは、客観というよりもどうしても解釈を織り込んでしまうので、フィードバックの質が落ちる。

NVCの1番目は「観察」なのだが、これが半端なく難しい。ちょっと試すとわかるのだが、どうしても解釈が入り込んでしまう。
コーチは、解釈抜きの外的観察をクライアントさんに提供する責任がある。

四つ目は、選択はクライアントさんにある という姿勢だろう。

これはある種、とても冷たい態度だ。
でも、最も相手を尊重する態度だ。

嫌なセッションは、コーチがストーリーを背負って関わろうとしている時。
クライアントさんをそのストーリーにのせようとしているのが透ける。

コーチは選択に対して、問うことはしなければならないけれど、「どうするか?」の決断は、クライアントさん次第なんだって姿勢を貫くことが必要だ。

仮に前に進んでほしいとコーチが願っていたとしても、進むか退くか?止まるか?どういう選択をしようが、クライアントさんは自由だ。

近親者に対するコーチングが難しい理由もここにある。
何しろその選択の影響を受けると知っているからこそ、介入したくなるのは当然なのだ。


五つ目は、クライアントさんにあるNCRWを観るという姿勢だろう。
ここはいわゆるセンスとも呼ばれる領域。今ここにはないものの、クライアントさんに潜在的に眠っているNCRWとコーチは対話する姿勢。スポンサーシップと言ってもいいかも。
コーチ自身がクライアントさんに先行して、その状態にある者として関わるからこそクライアントさんのNCRWが活性化する。

ここができないコーチは援助者としてクライアントさんをエンパワーしていると言えないだろう。

[Coaching]何が起きたか?語ること自体が苦痛というクレーム

 先月会社の同僚が5分ほどの短いクレーム電話を受けた後、やや憤然としながら、「一旦クレーム内容を伺った後、『では具体的にどういうことがあったか?教えていただけませんか?』と尋ねたら、『思い出すだけで気分が悪くなる。これじゃあ感情の2次被害だ!』と言って切れた。現場に伝えるにしても、何がどうだかがわからないと伝えようがないから伺っただけなのに…。」と仰っていた。「そんなクレームがあるとは!」とビックリした。

 実はコーチングのセッションを受けていて、実は同じようなことを感じたことがある。

 起きたことを思い出し、語ろうするだけで痛く、語りたくなかった。思い出して言語化行為そのものが痛い。

 結局、そうした言葉による説明をしないでセッションが成り立つオーラソーマやフォーカシングの助けを借りて、そうした悩みは解消して行った。コーチングは原理上、脱同一化させて、客観視させることを含んでいる。だから、どうしても現象を言語化する行為を内包している。

 これがまさにそれをしたくないという痛みの場合、そのシュチエーションは地獄だ。
言葉は便利だけど、言葉こそが凶器にもなる。

 しかし、クレームを言うという行為は、他者への説明が出来なければ仕方がない。それは状況を客観的に言及できるってことだ。
 起きたことを客観的に伝えられる現象説明の力と、それが起きた際に自分に起きた感情を切り離せる力がいる。

 個人的な感覚からすると、それってクレームを言う行為でなんとかするってよりも、親しい人に気持ちに共感してもらって、「そう。それって辛かったんだね」って慰めてもらう行為だと思う。たぶんこのクレームを言って来た方は孤独なんだ。そうしたちょっとした慰めを与え合う関係の人が近くにいない。だから、オフィシャルにクレームを受け付ける部署へ電話してしまった。そして、てっきり慰めて貰えると思ったら、逆に「傷付けられてしまった」。

クレーム電話を受ける部署の人としては、そんな個人の内的な感情のどうのこうのに付き合って居られない。現象には現象としてどうするかに応ずるのみ。

クレームの電話を受けていて辛いのは、クレームを言っている人自体がNVCでいうリクエストがわかっていないことだ。結局、会社へのクレームって話は、客観的にどうする。どうできるか?でしかない。だから、自分はどうして貰いたいのか?それが要求出来なければ、クレーム行為自体完結しない。




どちらにしても、とても気持ちが悪い。
うまく言い現せられないが、クレームの意味を間違えているとしか思えない。


そして、ツラツラ考えると、孤独、慰めいたわり合う関係の欠如が目に浮かび、悲しくなる。