善き友をもつということ

幸せに生きる上で大切なことは何か?

お金?伴侶?仕事?

いろんな要因が考えられるので、決定的に「これだ!」とならなかった。

しかし、このお経を読んで、おや?と思い、少しずつ「そうか!」と納得した。

コーチングを学び実践する中で、実感したのは、メタ認知は難しい。でも、メタ認知さえできれば、だいぶいい判断が人は可能になるってことだった。

で、自分で自分自身のことを知るのは難しいけれど、他人から見たら、私がどうなっているか?知るのは簡単。まるで頭隠して尻隠さず状態。

2023/11/23大学院生の修士論文の途中報告2つを聞く機会があった。お二人ともしっかりやっていらっしゃるのが伝わってきた。ここまで来るのも大変だったと思う。しかし、ありがちな沼にはまっているとも感じた。つまり、大きくこの論文で何を証明し、何を訴えようとしているのか?メインの問いへの答えを失っている気がした。研究のことなぞ何も知らない素人だからこそ、なんかメインの問いと関係ないことをいろいろやっているし述べているけど、肝心なことに答えてないって感じた。

コーチングでも、コーチ相手の自分語り(ナラティブ)をすると、自然とどこが急所か?語っている本人は渦中だからわからないけど、外野のコーチにはよく見える。それを指摘してくれるのが、善き友ってつくづく思う。

そしてこんな素敵な言葉を後世に残してくれたブッダって、すごいなって思う。

 

28 善き友をもつということ-僧伽 

相応部経典 45,2 半
阿含経 27,15 善知識

ある時、仏陀は、サーキヤ (釈迦族のすむサッカラという村にとどまっていた。その時、アーナンダ(阿難)が、仏陀に問うて言った。
「大徳よ、よくよく考えてみますと、わたしどもが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、すでにこの聖なる道のなかばを成就したにひとしいと思われます。この考え方は、いかがでありましょうか。」
仏陀の弟子たちは、そのように、師の教えるところをわが身にあてて考え、その所得を呈して仏陀の裁断を求めるというのが常であった。今日も、アーナンダは、日ごろ師の語りたもう善き友をもつことの重要さにつき、その思うところを呈して、その教えを乞うたのである。
「アーナンダよ、それはちがう。そういう考え方はただしくない。アーナンダよ、われらが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、それは、この聖なる道のなかばにあたるのでなく、まったくそのすべてなのである。」
アーナンダは意外の面もちであった。彼は、善き友をもつことが、この道のなかばにあたると言っては、すこし言い過ぎかも知れぬとこそ思っていた。しかるに、仏陀の裁断は、それでもなお足りないということであった。いや、そのことは、この仏道のすべてであるとまで、仏陀は仰せられる。アーナンダが意外な面もちをしていると、仏陀は、さらに説明して、このように教えた。
「アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間とともにある比丘においては、かれが聖なる八支の道(八正道)を習い修め、ついに成就するであろうことを期して俟つことができる。その故に、このことは、この聖なる道のすべてであるというのである。
アーナンダよ、これを考えてみても解るではないか。人々は、わたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより自由になることができる。病まねばならぬ身にして病いより自由になることができる。死なねばならぬ人間でありながら、死より解脱することができる。
アーナンダよ、このことを考えても、善き友をもち、善き仲間とともにあることが、この道のすべてであるという意味がわかるはずである。」
ここに、善き友をもつ、善き仲間とともにあるというのは、僧伽を意味する。仏・法・僧の僧 三宝という、その僧である。聖なる道を求める人々のつどいである。そして、そのつどいの重要なることは、仏にも、法にも、劣るものではないのである。

(1) 大徳 bhadanta の訳。 幸あれの意。聖者によびかける語。

増谷文雄「仏教百話」筑摩書房 1985.12.
p66-p67
https://honto.jp/netstore/pd-book_00374197.html