関係性を語りあう効用:ORSC

ORSCを体験した人からの「ORSCいいよ〜」話を聞くと、天の邪鬼なRyoji☆は「本当かなぁ〜」と思ってしまう。

関係性って当たり前だったり、自然と考えるかも知れないけど、実はデザイン出来るというのは、それ程驚くことじゃない。
未だに社会契約論が論として価値を持つのは、伝統と思っていることの根拠は、その歴史の古さに依拠するのではなく、多くの人の合意がそれに力を与え、正統性を付与しているのだ!という発見だった。つまり、フランス革命が人類史に意味を持つとしたら、そうした理性への信頼を元に、社会の在りようをデザインし直そうとした所にある。従来の「伝統だから」「慣習だから」を超えて、「理性」で合理的に関係性をデザインしようとした。
つまり、改めて関係性を理性に乗せてより良き在りようを探るというのは、広く認められた知恵なのだ。
関係性を外部化して、客観として扱えるようにしてやれば、自ずとどうしたらよいか?見えるものだ。だから「ORSC自体がよい」ってよりも、「関係性を話す環境を整える状況設定がよい」のではないだろうか?
そう考えると、「何故ORSCでDPAが重視されているか?」理解出来るのではないだろうか?ORSCが機能する条件は、最初に何のためにこれをやるのか?で、納得出来るか?どうか?にかかっている。ORSC自体は素晴らしい道具を持っているけれど、型にハマるかどうかは最初の場の設定にかかってる。


ORSC体験の声として、「こうした関係性について親しい間柄だったけど話したこと無かった」がある。これはそうだなぁ〜って思う。私たちは自然発生する関係性に任せきっていて、関係性をお互いにとってより良いようにデザインするってことをしない。だから関係性について語らない。一旦、関係性を語るという、見えない関係性を外部化することを始めると、自然と明確になっていく関係性と自分の意図の往還が起き、本当は現れたがっていた関係性が浮上する。
何故関係性を改めて語り合うことが難しいのか?
他者介在がないと、関係性について話しているのか?個人の意見を話しているのか?区別がしにくい。そこを「話しているのは関係性なんだ」と保証する第三者が必要とされる。関係性をよりよくするために、他者介在が必要なのだ。

文化人類学を学ぶと、ちゃんと人類は関係性を語ることの大事さを知っていたことを知る。アメリカのネイティブ・アメリカンの伝統には、部族がみんなで語り合うことがあった。(恐らくRyoji☆が知らないだけで、日本でもそうした伝統があった筈だ。)トーキング・スティックという知恵もそこから生まれた。そこには長老がいて、皆の話に耳を傾けるのを保証していたし、シャーマンが部族の神の声を伝えてくれた。プロセスワークに触れると、こうしたシャーマンとはより場のエッセンスに触れ、場にいるメンバーが感じている何かを言語なり身体表現なりで伝えてくれる存在なんじゃないか?と感じる。言わば場で起きている何かから直感的知をもたらしてくれたのではないだろうか?だとすると、シャーマンは神様との交信、お告げというよりも、場の自覚を上げ、より意図に叶った意志決定を助ける存在だったんじゃないだろうか?プロセスワーク風に言うならば、プロセスマインドとの往還をよりよくしてくれる人なんじゃないだろうか?


コーチングを学んでいてORSCerになろうとする人がやりそうになることに、ORSCerが感じた直感や質問を投げたくなり、ムズムズする。これはORSCの境地からすると、ORSCerが感じるのはよいが、それをクライアントさんたちにやってはダメだ。ORSCerが行うべきは、関係性=システム=場がどうかへクライアントさんたちへ投げかけることだ。きっと沈黙が返ってくる。関係性を考えたことがない人たちが関係性を考えると、考えるための時間が必要になるし、こんな感じを言い当てるのも難しい。だから、「きっと見つけられますよ」って心持ちでいることがORSCerには求められる。

多分エルダー=長老は長く生きて来たことを通じ、かつ、自身の体力がないということもあり、信じて見守るというポジションを組織の中で、意図せず取ったんじゃないだろうか?結果、その第三者性が場にプラスの要素を持ち込んだのではないだろうか?

ORSCとは、組織の持つポテンシャルの発揮を目指すので、ORSCerは最初から「この組織はもっとよくなる」という予断満載で臨むぐらいでちょうどいい。逆に言えば、それだけ組織への楽観を持つのが難しい時代ってことだろうな〜。