手放す・諦める・絶望する

この所、Dannaに「とくちゃんは考え過ぎ」と言われてピンと来なかったことに、もしかしてこういうことを言われていたのかな?と思うようになった。


それは、よく言えば、手放すってこと。悪くいえば絶望しきったってこと。

例えば、「社会をよく変えて行こう!」と思うと、Ryoji☆は自分では出来ない所ばかり目がいって、そんなRyoji☆に自己嫌悪していた。

コーチングに出会うまでは、そういった頭の中の妄想が酷くって、客観的にはどうか?自己の学習が出来てなかった。

コーチングに出会って、言葉レベルで、客観の無さを指摘され、実際にやって振り返るって作業を繰り返した。

昔からの格言「汝自身を知れ」を実践した訳だ。

結果、だんだんとRyoji☆はどうやってもこうだってことがわかって来た。いろいろ足掻いてみたし抵抗したんだけど、エネルギーが上がるポイントや下がるポイント。出来るけど嫌いなことや嫌がらずサッと出来ること。これらはあまり変化がなかった。いつも同じフィードバックが返ってきた。


 例えば、人見知りなのは今も昔も変わらない。根底には他者への恐怖と自己の安全がある。この衝動、サッとそういう心持ちになることはどうしょうもない。
 昔と違うのは、ただ人見知りなだけじゃなくて、自分から勇気を持って他者に踏み込めるようになったし、「人見知りだ、嫌だ!」って自分の混乱する気持ちにもYesを出せるようになった。つまり、以前それはRyoji☆の制約条件ではなくなった。でも、依然として「人見知り」ではある。

そういう心待ちでいて初めて、アドラー心理学風に言えば、他者と自己の課題の分離が、「そういうことか?」と腑に落ちてきた。

今までのRyoji☆は、ここの境界の区別が付かなくって、苦しんでた。

傾向として、お節介なので、先回りして他者の課題を引き受ける傾向にあった。
思い込みとして、自分と他人は同じように感じるはずと思っていた。
だから、他者のありようを尊重できず、勝手に推測し、踏み込んで、そういう事をしてほしくないと否定されて、親切でやったのに、と心千々に乱れていた。
「こうしたらこうするはず」っていう自分視点から抜け出せなかったので、思いがけない行為をする他者にどう関わっていいのか?適切な関わり方が分からなかった。


 今意識してるのは、行動的なことや他者と交わって何か起こすという行為は、Ryoji☆の得意分野じゃないってこと。そこは得意な人に任せる。
 Ryoji☆なりに貢献できることは、原理を解き明かし、説明することだ。ここは夢中になってやれる。なぜそういうことになってしまうのか?そして、そこからどうやったらいいか?原理を伝えることはできる。

そうやって、Ryoji☆の力なさ、不器用さを受け入れた時、肩の力が抜け、今できることを精いっぱいやるって視点に切り替わった。

 逆説的だけれど、無理して背伸びしていた時は傷ついてばかりだった。自分で自分を傷つけていた。そして独りだった。
 絶望しきったら、ここがRyoji☆のお役目だ!という居場所が見えて生き生きし、仲間が必要で、仲間の中のいて安心するようになった。

人見知りからついつい、たくさんの知り合いを持つ人に憧れる。
でも、Ryoji☆にはそれは無理。
だから、Ryoji☆ができる範囲の人へ丁寧に関わることを選ぶ。
拡散して行ってもらうのも、そういうのが得意な人にやってもらう。

Dannaには、他者の課題に対しても、自分の課題に対しても、「ああでもない」、「こうでもない」と過剰に考えてばかりいるRyoji☆の姿が「不思議なことをしているなぁ」と映ったんだろうなぁ。

考えること自体は好きなRyoji☆にとってそのコメントは、「考えるのを少しは手放したらいいのに?」って響いて、不快だった。

こうして絶望しきって、シンプルになり、楽になった。

明確になったのは、仲間の大切さ。
間違えた時に正してくれる仲間。自分ではできないことをしてくれる仲間。

まさにブッダが説かれたように、善き仲間と共にいるとは、すでに修行を為したに匹敵する行為なのだ。