[Coaching]何が起きたか?語ること自体が苦痛というクレーム

 先月会社の同僚が5分ほどの短いクレーム電話を受けた後、やや憤然としながら、「一旦クレーム内容を伺った後、『では具体的にどういうことがあったか?教えていただけませんか?』と尋ねたら、『思い出すだけで気分が悪くなる。これじゃあ感情の2次被害だ!』と言って切れた。現場に伝えるにしても、何がどうだかがわからないと伝えようがないから伺っただけなのに…。」と仰っていた。「そんなクレームがあるとは!」とビックリした。

 実はコーチングのセッションを受けていて、実は同じようなことを感じたことがある。

 起きたことを思い出し、語ろうするだけで痛く、語りたくなかった。思い出して言語化行為そのものが痛い。

 結局、そうした言葉による説明をしないでセッションが成り立つオーラソーマやフォーカシングの助けを借りて、そうした悩みは解消して行った。コーチングは原理上、脱同一化させて、客観視させることを含んでいる。だから、どうしても現象を言語化する行為を内包している。

 これがまさにそれをしたくないという痛みの場合、そのシュチエーションは地獄だ。
言葉は便利だけど、言葉こそが凶器にもなる。

 しかし、クレームを言うという行為は、他者への説明が出来なければ仕方がない。それは状況を客観的に言及できるってことだ。
 起きたことを客観的に伝えられる現象説明の力と、それが起きた際に自分に起きた感情を切り離せる力がいる。

 個人的な感覚からすると、それってクレームを言う行為でなんとかするってよりも、親しい人に気持ちに共感してもらって、「そう。それって辛かったんだね」って慰めてもらう行為だと思う。たぶんこのクレームを言って来た方は孤独なんだ。そうしたちょっとした慰めを与え合う関係の人が近くにいない。だから、オフィシャルにクレームを受け付ける部署へ電話してしまった。そして、てっきり慰めて貰えると思ったら、逆に「傷付けられてしまった」。

クレーム電話を受ける部署の人としては、そんな個人の内的な感情のどうのこうのに付き合って居られない。現象には現象としてどうするかに応ずるのみ。

クレームの電話を受けていて辛いのは、クレームを言っている人自体がNVCでいうリクエストがわかっていないことだ。結局、会社へのクレームって話は、客観的にどうする。どうできるか?でしかない。だから、自分はどうして貰いたいのか?それが要求出来なければ、クレーム行為自体完結しない。




どちらにしても、とても気持ちが悪い。
うまく言い現せられないが、クレームの意味を間違えているとしか思えない。


そして、ツラツラ考えると、孤独、慰めいたわり合う関係の欠如が目に浮かび、悲しくなる。