菩薩道とは、自利と他利の一致にある

原始(根本)仏教たる阿含経典を読んで、考えてる。
仏教の歴史を概観すると、確かにブッダは驚異の人だと感じる。今読んでもブッダに説得されてしまう。「二の矢を受けずの教え」は、コーチングを学ぶ中で、「どれだけ自己の感情をキチンと掴めるか?」、感情モニタリング、EQの基礎の大切さを別の形でわかりやすく説いた教えだ。それを概念として理解したことと、実際にそれが出来ることの差を思い知った。理解したけど出来ないのだ。だから、修行が必要になる。先達者たるブッダの導きにより、それをマスターすれば阿羅漢に達する必然性は、ブッダの時代も現代も全く同じ。石飛道子さんによると、ブッダの語りに説得されてしまうのは、この世界を成り立たせている「生じ滅する」無常のことわりに基づいた論理に乗っ取って、法を説かれるから。穏やかな語り口の裏にビターで厳しい論理が控えている。だから、説得される。有無を言わさない論理の厳しさを感じさせず、倫理として響かせるのがブッダのすごい所だ。確かにこの世界を映しとった「一切」を語り切るので、頷かざろう得ない。

そして、初転法輪ブッダがためらったのは無理もない。ブッダの説く境地は、解釈者によっては、虚無主義に取られかねない。そうじゃない境地がありえることを理解して貰うのは難しい。何故なら、言葉そのものが「ある」を前提にしないと語れないように思える。実際には無我なる言葉には、「ある」「ない」も等価であり、かつ、「ありでも、なしでもない」状態もありうる。この3つは論理的には全く等価なんだけど、自我に縛られた私たちには「ありでも、なしでもない」状態を受け入れるのが難しい。(ベン図を書いてみると、何を言っているか?わかる。極めて論理的なのだ。)言葉を発した途端、それはあり、あれば反対等価である「ない」を呼び覚ます。しかし、それは言葉の性質であって、現実には「ありでも、なしでもない」状態もありえる。ブッダに論争を挑む人たちは一様にそんなブッダに疑問をぶつける。あるがままを映しとるブッダの法は、その微妙さを伝える。ブッダに見事に説得されてしまう。

そして、自らの発見をブッダはそのままにすることも出来た。自利を選ぶことも出来た。「悟り」という人生ゲームにおいて、揺るぎない答えを得た。それを他者も知れば同じ境地に至たると考えたのは他利だ。

ブッダは自分自身の内を考察するこてで、壊法を発見した。ブッダではない弟子たちには、「何故そうなのか?」分析による探求が進んだ。同時期に起きた、ギリシアプラトンの哲学。中国の儒教に比べ、インドは宇宙論の精緻さがある。数秘術の影響もあり、ブッダの教えをしっかりと分類整理することが起きた。結果、他利よりも教義研究学問に重きがおかれた。で、在家信者から他利を強調するカウンターが起きた。自利行と他利行が一致する人こそ尊いと。それが般若経典。で、それを論理的に支える形になったのが、八宗の祖、竜樹。ここに至り、直感は論理という形を与えられ、それ自身の運動を始め、華厳や法華経の展開へと開いて行った。


コーチングを知って自己実現を達成する法について書かれた本を沢山読むようになった。結果として、どの本を読もうが、「成功するには他利行しかない」ことが謳われている。サービスを提供するからひいきにされ、また利用して貰える。他利が大きい程、自利の利益もまたある。ブッダが見抜いた通り、生じ滅する流れのままに、「何が皆が望む生じなのか?」を掴んだ者に、富や福はやってくる。

だから、真に洞察し動いてる人は皆、本人の自覚とは別に、他利行を行う菩薩なのだと言えるだろう。事業が存続可能なのは、他利行を行っている時だけなのだ。

経験学習におけるコツは、「楽しみ」だ。どんなに単調で興味を持ち続けられない作業も、視点の持ちようにより、「楽しみ」を見いだせる。強引に言い換えるならば、これだって、他利行だけだったことを、「楽しみ」という自利行に一致させ、菩薩道にしたと言えるかも知れない。

この他利行と自利行の一致、菩薩道とは人の存在にとってなかなか興味深い問いを孕んでいる気がする。