人間への突き抜けた信頼

あの日(3/5)から1週間経って、選択肢が広がった実感がある。

これまでどちらかと言えば場で痛みを感じ合うスペースをRyoji☆は作って来た。それに対して3/5の場は、静かな喜びの場だった。そんな場も創り出す力がRyoji☆にあることを実感した。
何よりそれを創り出したいって願い、実現させた。意図と結果を繋げ、しかもRyoji☆の願いを超えた。そのことも大きい。


幸せになっていいんだ。


当たり前だけど、Ryoji☆には当たり前じゃなかった。いっぱい思い込んでいて、ずっとRyoji☆自身がRyoji☆に「Ryoji☆は幸せになる価値がない」って暗示を懸けていた。

CTIの応用コースで、この可能に触れて信じらなかった。そのアメリカンな能天気さに呆れた。これだからアメリカ西海岸の人の考えることは、そこ抜けに突き抜けてる。やっぱり自己啓発の暗示にかけられてると思った。なぜちゃんとケアの知識を持とうしないのか?セラピーでは念仏のように、クライアントさんの世界を尊重し、健常な社会生活を送る上では、なんでない言葉や行為も余分な解釈を生まないように、細心の注意を払う。ほんとはこんなに精神的に危険なことをやらしているのに、なぜ危険だ!と教えないのか?
そんな疑問が渦巻いて、全然信じらなかった。

こうして「やり切り」、その意図を可能とさせてみると、フォーカスの持ち方か?と感じる。

見たくもない現実を直視して、判らない領域へ敢えて踏み出す勇気。

ただ、これには大きな前提がある。

コミット。

決めること。腹を括ること。そこへ行くことにクライアントさんが同意すること。

微妙なのは、クライアントさんが決めることをコーチが尊重し続けられるか?

コーチが自らの闇とちゃんと向き合ってないと、クライアントさんのスペースを浸食し、コーチの波にさらってしまったことに気付けない。
でもクライアントは直ぐに判る。時空間が歪むから。発する言葉がコーチのハートに沁みない。

だからCo-Active Coachingは恐ろしくラディカルな人への信頼の上で機能する。その突き詰めた論理には、人は強い。逞しい。人生を生き切ろうとする意志があると、前提している。

そう言った意味で、Co-Active Coachingを体現出来ているコーチは存在しているんだろうか?Ryoji☆には、その余りのラジカルさに皆無ではないか?と思う。少なくとも社会生活をマトモに営めない程、狂ってるはずだ。

だから、職業倫理はコーチを守るためにある。全ては、人への圧倒的な信頼を保持し続けられるかどうか?

日本という文化磁場において、この恐ろしい論理を歪めず、貫くのは想像以上の軋轢なのだと、どれだけ自覚して関われているのだろうか?

ファシリテーターの道具箱―組織の問題解決に使えるパワーツール49

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