愛を伝える5つの方法

FゆFゆから紹介してもらった夫婦のお互いのラブタンクをいっぱいにするための5つの方法(正確には、ゲーリー・チャップマン「愛を伝える5つの方法」いのちのことば社2007.9 http://honto.jp/netstore/pd-book_02917644.html

愛を伝える5つの方法

愛を伝える5つの方法

)という本を読んで、「そっかぁ!」と感心した。そうそうこういう本を読みたかった。

1.肯定的な言葉
2.質の高い時間(クオリティ・タイム)
3.贈り物
4.サービス行為
5.身体的タッチ


実は私たちは一人一人他者から何をされると「愛されている」と感じるか?が異なる。著者のチャップマンは「言語」という比喩を使っている。言語が違えば、いくらその言葉で愛を語られても、相手には通じないのだ。

例えば、ある人はサービス行為をされると「愛されている」と感じる。だから他者である妻/夫も自分と同じように感じるだろうと一生懸命サービス行為をして、「愛してる」ってアピールした。ところが、その妻/夫は質の高い時間を共有すると「愛されている」と感じる人だった。だから、ラブタンクは一向に満たされず、不満を言い続けた。言われる側も自分の愛してる行為をやっているだけに訳がわからない。といった具合だ。



一つ目の肯定的言葉。これは「褒め言葉」なんて言われたりしている。特に愛してるステディな人からの肯定的言葉。励まし、勇気づけ、認知されると、ラブタンクがぐっと上昇する。そうした言葉がけをしてあげると、「愛されている」と感じるタイプなのだ。


2つ目は、質の高い時間。これは長い時間でなくていいから、相手に全身の関心を向け続けてあげること。
Ryoji☆も妻からクオリティ・タイムの要望があり、意味不明だった。「え、ただ一緒にいればいいの?」
解決して欲しいのでもなく、時を共に過ごす。余人やテレビやラジオを二人の間に挟まない。共にいることが大切。他のことに気を向けない。相手だけ。


チャップマンが上げているのは、ご自身の娘さんの例。娘さんは父であるチャップマンに「散歩しない?」ってお誘いするそうだ。で、一緒に散歩する。その時間を一緒に過ごすことが娘さんにとって「愛されている」ことを実感する時間なのだそうだ。


3.贈り物はよくわかるではないだろうか?それは軽重を問わない。ちょっとケーキを買ってあげるでも、カードにメッセージを書いて渡してもいい。兎に角、相手に物をプレゼントすること。

すっかり忘れていたのだが、最近再会した相手から言われて思い出した。
たまたまコーチングの勉強のクラスが終了した日に誕生日を迎えるコーチがいた。で、仲間と語らって、わざわざ打ち上げの飲み会会場を調べて別部屋を取り、サプライズ祝いをかけたことがあった。(こういう愉快イタズラは大好き!)こっちは忘れていたのに、相手は覚えていてくれた。だから余程インパクトのあった贈り物だったのだろう。


4.サービス行為とは、相手のために諸々のことを代わりにやってあげること。掃除だったり、芝生刈りだったり、それをされると相手が助かると感じること。
Ryoji☆の例だと、妻もRyoji☆も風呂洗いが嫌い。一緒に過ごすようになって、長らくどっちが今日の風呂洗いをするか?がケンカの種だった。
で娘が生まれ、妻にとって屈む姿勢が負担が高いってことで、Ryoji☆の仕事になった。
今でも風呂洗いはやりたい家事ではない。でも、そうすることで妻が喜んでくれるなら、仕方がないなぁ〜と感じるようになった。そう。彼女が喜んでくれるから、嫌な家事もやるのは前ほど苦痛でなくなった。

5つ目は、身体的タッチ。どちらかというと、女性に比べ男性はよりその衝動があるらしい。女性にとっては、感情が高ぶれば身体的タッチも可らしい。感情の高ぶりなしに身体的タッチをされても気持ち悪いだけ。
Ryoji☆の娘の様子を見ていると、基本ハグをされると喜ぶ。言葉は通じなくても、身体的タッチに愛を込めることは可能なのだ。


どうだろう?
メインに嬉しい言語とサブで嬉しい言語があるらしい。他者から何をされると、愛を感じるだろうか?ラブタンクが充たされる感覚が湧くだろうか?
Ryoji☆は、贈り物、サービス行為、クオリティ・タイムにはあまり自分のラブタンクが充たされる気がしない。勿論して貰うと嬉しいけれど、だからってそれ以上ではない。
Ryoji☆は肯定的言葉と身体的タッチをして貰うと、愛されていると感じる。


最後に、なんでわざわざ相手の言語行為をしなけりゃいけないのか?だって自分はそれをしても満足は得られないのだから。
それは愛は選択だからなんだそうだ。
自分が愛すると決めた相手のためになることをするのは、喜びなのだ。だって相手の喜ぶ顔が見たいのだから。相手の笑顔を見たら自分が充たされるのだから。熱狂の恋ではなく、愛は意思による選択だからこそ、あり得ないことを可能にする。


このことを知ったなら、きっと困難であったとしても愛を選択するのではないか?と感じる。恋愛の熱狂から冷めて、ラブタンクが空になった時、あんなにも素晴らしかった相手は、世界最悪の憎悪対象と化すかも知れない。

しかし、それでも人は愛を選択することも出来る。まず自分から相手の言語を使って相手のラブタンクを充たすのだ。相手には応酬の義務はない。自由だ。こちらが与えて与えて与える。見返りは求めない。
この選択の自由を持つのもまた人なのだ。