怒りにうち勝て。怒るな。byブッダ(法句経223、224)

Dんなが定期的に開催してくれるダンマパダ(法句経)の読書会。12/1は怒りの章だった。


いや〜最高に素晴らしい会だった。

Ryoji☆はコーチングを知ってから、Ryoji☆自身の怒りにどう対処するか、悩んで来た。
Ryoji☆はとても怒りっぽい。だから内的アップダウンが激しくて疲弊する。「怒りたくない!」「怒っちゃいけない!」と思うたびに益々怒りを手放せないRyoji☆に直面して、どうしたらいいか?悩んでいた。

三木清の「人生論ノート」に、「怒りにはイラデ、神の怒りもある。」と怒りの肯定的捉え方があり、怒り=忌避すべき対象、ではなく、TPOなんだなと示唆されていた。
一方、ブッダ三毒の一つ(貪・瞋・癡の瞋)に上げるぐらい、怒り=ダメ!とあり、いったいどう考えたらよいか?
混乱していた。


Dんなが「怒りに包まれると我を失うんだよ。後で正気に返った時に後悔する。だけど、怒りに満ちてる時はどうしょうもない。」と息子さんを観察していてのコメントしていて、「うんうん、そうだよ」って我が意を得たりだった。アルコール依存症やDVなんかで、関係が悪化する負のスパイラルもまさにこの振り子の為せる技。
かつてSまちゃんが、犬の躾について教えてくれた時「犬は悪くない。状況によってコロコロ犬への態度を変える人がいけないんだ。躾のためには人にそれだけの一貫性が求められる。」と語ってくれたことを思い出す。怒るのと叱るのは違う。Ryoji☆からみるとSまちゃんは叱る達人だ。怒りは状態にまみれ、周りに放出しているだけ。叱るのは、目的がある。行動を叱るけど、人格は尊重する。
Ryoji☆にはとても他人に人に叱ることはお勧めできない。こうして概念把握した後感じるのは、その容易ない実行の難しさだ。言いかえるならば、Sまちゃんの叱るは愛そのもので、怒りとは全く違う、愛の上級版なんだ。

Ryoji☆はブッダってほんと嫌な教師って思う。仏典を読んでると、修行をサボって、ブッダに諭されるお弟子さんがよく出てくる。Ryoji☆は出来の悪いお弟子さんに共感する。ブッダには隙がない。非の打ち所がない。ブッダの指摘は論理的に正しい。Beingそのものが教えを体現している。
だけどさ、いつもそう在り続けんの大変なんだよ。確かに帰依して阿羅漢を目指してるよ。ブッダに帰依するって決めたよ。だけど、容易には歩めない道なんだよ。
殆ど人に在らざる領域に近いとしか言えないブッダと、その正しき仏道を歩めない凡人たる我。
ブッダは嫌な教師じゃない?我のいたらなさ、弱さ、そうする力のなさを常に喚起し続ける存在なのだ。


「怒るな」「怒りにうち勝て」と聞くと、「怒ってはいけない。」「怒りと戦い勝利せよ」と自動翻訳されて理解され、「そんなこと出来ないよ」と悲鳴を上げたい気持ちだった。

みんなと音読し、みんなの「怒りへのうち勝ちっぷり」を聞いて、ブッダの言いたいことを誤解していたことに気がついた。


「怒るな」とは、心を落ち着かせて怒りの状態に止まるな。「怒りにうち勝て」とは、怒りに囚われて反応を返すのではなく、怒りを認めた上で怒りに執着せず反応を創造せよと言う意味と、掴み直すことが出来た。


ブッダの使用する否定形は難しい。私たちが通常言語で行うのと違う使い方なんだ。例えば「無我」なんて言葉は最たるものだ。ブッダが言いたかったのは、「我に執着しない」状態。自我を否定した訳じゃない。だけれど、私たちの日常言語世界では、ブッダが言い表したかった状態を指す言葉がない。論理的にはありえるのだけれど。


こうして幾多の経験を経て、やっと受け取る。「怒るな」「怒りにうち勝て」はい。そうします。

ブッダの教えに感謝。