傾聴と、その弊害?!

FacebookでYさんが傾聴はよいと思っていたけど、傾聴だけでは話し手の混乱や不安を助長し、曖昧だったものを明確化し強化してしまう。ドン・マティーニさんの教えから、中断や、傾聴だけではなく中断し教えるってことの大切さを学んだ。傾聴の弊害も考えないと、といった趣旨が書いてあった。ある意味、「そうだよね〜」って思う。同じような実感を体験したことがある。しかし、時間を置いてつらつら考えるに、そう言っていいのだろうか?という疑問が強くなった。(ということは、Ryoji☆の価値観に触れる何かがそこにある。)

多分Yさんのいう傾聴と、Ryoji☆の考える傾聴は違う。Yさんの言う傾聴は、鏡のイメージだと思う。Ryoji☆の思い描く傾聴は、自己内対話の促進だ。だから、聴き手はクライアントさんの型に合わせて、自己内対話が滞っている何かを、ちょっとツンツンする。
フォーカシングを体験してよくわかったのは、傾聴は聴いている時間じゃない。クライアントさんが自分一人では、壊れたレコードのように、何度も何度も同じ場所でグルグルするそこで、フェルトセンスという体感覚と自己内心理とが、何とか折り合えるポイントを探し、一人ではできなかった自己内対話を実現させることにより、「あっ」という気づきが生まれ、リリース、執着のちょっと手放しが可能となる。真の傾聴とは、つまる所、それを起こす手助けだ。


しかし、Yさんの見立てだと、どうしても第三の審級を呼び、そこには教えるということが生じる。Ryoji☆の価値観に触れるのは、それが操作に感じるからだ。
フォーカシング感覚だと、どうなるか?全くわからない。やってるクライアントさん(フォーカシング的にはフォーカサー)も、何がどう展開するか?理性では想定出来ない。体感覚にフォロー、従っていたら、こんなんなりました!ってだけ。聴いているカウンセラー・コーチ・リスナーも、どうなるか?わからない。わかるのは、一人の人として傾聴していると、内に上がるイメージがある。それを解釈して理性で語ることも出来るけれど、感じたままであればあるほどクライアントさんには素直に響く。人が悩み、スタックする場所は、いろんな情動が溢れてる。だから、「即これだ!」と行動出来ないので、悩んでしまう。だから、そこは彩り豊かだ。結局、傾聴してもらって「わかってくれた!」と感じるのは、その情動に触れてくれたかどうか?なのだ。
つまり、傾聴が自己内対話の促進だとすると、話し手も聴き手も、何が正しい!とか、どうすべきか?ではなく、ひたすらに、今ここで話し手が感じている何かにフォローするだけなのだ。それが鏡なのか?より深い所へ行くかは、聴き手がどれだけあるがままに話し手の話の意図へ意図へと附いていけるか?にかかっている。


Yさんのスタンスには、話し手と聴き手の事前合意が必要だ。話し手はその悩みを解決したい。で、聴き手にどうしたらよいかを委ねる。
であれば、教えたり、操作したりするのは問題ない。

Ryoji☆的にはそこに持ち込まれる権力関係が嫌。悩みの扱い方を知ってる専門家に治療される私。そこに人と人との出会いはない。専門家も知識として知っている技術を用いただけで、人と出会っている訳じゃない。


Ryoji☆自身、「魂の聴き手になりたい!」と願っているけれど、失敗ばかりしてる。全然傾聴しきれていない。関わる相手の自己内対話を促進しきれていない。
美しいそこに出逢うと、言葉を失って、聴き手であることを忘れてしまう。その何とも言えない風景、光景は、今もありありとRyoji☆の内にある。


「傾聴に弊害がある」と感じるなら、Ryoji☆の視点からすると、「まだちゃんと傾聴しきれていないからだよ」と言える。

ほんの少しでいいから、操作する関係性(主として恐怖を煽る)でなく、人と人が一期一会の出逢いの関係性(認知と承認、ホールネス)を持ちあえたなら、世界はまだまだ捨てたもんじゃないと、ほんの少しの満たされを持ちあえるのに。