手放す・諦める・絶望する

この所、Dannaに「とくちゃんは考え過ぎ」と言われてピンと来なかったことに、もしかしてこういうことを言われていたのかな?と思うようになった。


それは、よく言えば、手放すってこと。悪くいえば絶望しきったってこと。

例えば、「社会をよく変えて行こう!」と思うと、Ryoji☆は自分では出来ない所ばかり目がいって、そんなRyoji☆に自己嫌悪していた。

コーチングに出会うまでは、そういった頭の中の妄想が酷くって、客観的にはどうか?自己の学習が出来てなかった。

コーチングに出会って、言葉レベルで、客観の無さを指摘され、実際にやって振り返るって作業を繰り返した。

昔からの格言「汝自身を知れ」を実践した訳だ。

結果、だんだんとRyoji☆はどうやってもこうだってことがわかって来た。いろいろ足掻いてみたし抵抗したんだけど、エネルギーが上がるポイントや下がるポイント。出来るけど嫌いなことや嫌がらずサッと出来ること。これらはあまり変化がなかった。いつも同じフィードバックが返ってきた。


 例えば、人見知りなのは今も昔も変わらない。根底には他者への恐怖と自己の安全がある。この衝動、サッとそういう心持ちになることはどうしょうもない。
 昔と違うのは、ただ人見知りなだけじゃなくて、自分から勇気を持って他者に踏み込めるようになったし、「人見知りだ、嫌だ!」って自分の混乱する気持ちにもYesを出せるようになった。つまり、以前それはRyoji☆の制約条件ではなくなった。でも、依然として「人見知り」ではある。

そういう心待ちでいて初めて、アドラー心理学風に言えば、他者と自己の課題の分離が、「そういうことか?」と腑に落ちてきた。

今までのRyoji☆は、ここの境界の区別が付かなくって、苦しんでた。

傾向として、お節介なので、先回りして他者の課題を引き受ける傾向にあった。
思い込みとして、自分と他人は同じように感じるはずと思っていた。
だから、他者のありようを尊重できず、勝手に推測し、踏み込んで、そういう事をしてほしくないと否定されて、親切でやったのに、と心千々に乱れていた。
「こうしたらこうするはず」っていう自分視点から抜け出せなかったので、思いがけない行為をする他者にどう関わっていいのか?適切な関わり方が分からなかった。


 今意識してるのは、行動的なことや他者と交わって何か起こすという行為は、Ryoji☆の得意分野じゃないってこと。そこは得意な人に任せる。
 Ryoji☆なりに貢献できることは、原理を解き明かし、説明することだ。ここは夢中になってやれる。なぜそういうことになってしまうのか?そして、そこからどうやったらいいか?原理を伝えることはできる。

そうやって、Ryoji☆の力なさ、不器用さを受け入れた時、肩の力が抜け、今できることを精いっぱいやるって視点に切り替わった。

 逆説的だけれど、無理して背伸びしていた時は傷ついてばかりだった。自分で自分を傷つけていた。そして独りだった。
 絶望しきったら、ここがRyoji☆のお役目だ!という居場所が見えて生き生きし、仲間が必要で、仲間の中のいて安心するようになった。

人見知りからついつい、たくさんの知り合いを持つ人に憧れる。
でも、Ryoji☆にはそれは無理。
だから、Ryoji☆ができる範囲の人へ丁寧に関わることを選ぶ。
拡散して行ってもらうのも、そういうのが得意な人にやってもらう。

Dannaには、他者の課題に対しても、自分の課題に対しても、「ああでもない」、「こうでもない」と過剰に考えてばかりいるRyoji☆の姿が「不思議なことをしているなぁ」と映ったんだろうなぁ。

考えること自体は好きなRyoji☆にとってそのコメントは、「考えるのを少しは手放したらいいのに?」って響いて、不快だった。

こうして絶望しきって、シンプルになり、楽になった。

明確になったのは、仲間の大切さ。
間違えた時に正してくれる仲間。自分ではできないことをしてくれる仲間。

まさにブッダが説かれたように、善き仲間と共にいるとは、すでに修行を為したに匹敵する行為なのだ。

[Coaching]4/2日本酒の会でへべれけに酔う

秋に大國魂神社で開催された武蔵の国の酒祭りに来てくれた美奈ちゃんに誘われて
銀座のSAKE HALL6周年イベント。7つの日本酒の酒蔵さんが飲ませてくれるイベントに参加して来ました。

http://www.hibiya-bar.com/sakehall

どの酒蔵さんの日本酒もとても美味しくて感動しました。

日本酒って文化なんだなってつくづく感じました。
熱心に説明してくださるのを伺うと、大量生産しようとしたらできなくはない。でも、そうすると風味とか香りとかがかなり失われてしまう。だから、手間も掛かるし、効率は悪いけど、香りや味を大事にしたいから、手間暇をかけるのだと。

実は、本も同じなんです。
愛好の士が集まって、これっていいよねって言い合う。
それが本来の出版文化。
パトロンが営むもの。
それが、近代出版になって様相が一変してしまった。
お金をより儲けるための手段に本がなったら、途端に文化がどっかへ行ってしまった。
1996年をピークに下がっていく一方の書籍売り上げ。
現在は、近代出版が崩壊していくプロセスにいる。
出版技術も進んだ今となっては、もう一度原点に立ち返る時期に来ている感じがする。
いいと思うものに手間暇かける。
雑誌に連載したのをまとめて本にするという流れ作業ではできない何か?

そしてある酒蔵さんは、お客さまからの要望として、ぜひ生酒を出してほしい。との声を受け、蔵の出荷体制をそれように変更。かつ、全国で受注生産で卸す酒を買ってくれるお店と提携して、温度管理を徹底し、お客さんにそのうまさを提供できるようになるのに
2年掛かった。

これがまた、極みと名付けるのも最もだと感じるほどうまい。
火入れしたり、吟醸になっていくと、洗練されたり、安定しているのだけど、この生には圧倒的なパワーがある。

値段だけで考えると吟醸の方が高い。でも、洗練されている感じはするけど、それはそれで一つの好みでしかない。「値段が高い=うまい」ではないということがよくわかった。

今回、古酒の日本酒も試飲させてもらい、感動。枯れてるけど、元がしっかりしているからいい味していた。

一緒に飲んでいる方で、なぜかその土地の食べ物と一緒に飲むと一番美味しく感じるとおっしゃっている方がいた。その通りだと思う。7つの酒蔵さんを飲み比べると、原型となる生のベースからして大きく違う。

浦霞の酒蔵さん。2011の時は停電で、浦霞ブランドとしては出せなくなってしまった。そこで、窮余の一策として焼酎に切り替えて、一部を梅酒にした。
これがまた、今まで飲んだことのない、スッキリした梅酒となっていて、人生もそうだけど、不幸だ!と嘆くだけじゃなく、そういう状態であったとしてもできることにトライする姿勢が大事だなぁと改めて感じた。

今回の酒蔵さんはどれも研究熱心。だから、一つの蔵でいろんなバリエーションの味の日本酒が出ていた。自分たちがお客さんに喜んでもらおうと、できることをやっている。その姿勢がちゃんと味に反映していて、ほんと感動した。

翌日にはまったく二日酔いなし。良い酒はほんと素晴らしい。

[CleanLanguage]Ryoji☆はなぜこんなにもCo-Active Coaching好きなのか?

3月にクリーンランゲージの認定を受ける方の練習相手として、クリーンランゲージのクライアント役をやった時に、たまたま「なぜCo-Active Coachingを体験することができる場を作ろうとするのか?」ということを巡って、クリーンのセッションになった。

で出て来たメタファー・ランドスケープを以下に書いてみる。
全く何のことを言っているんだろうって思うかも知れないが、Ryoji☆にとってはこう感じられていて、あぁそんなにも好きなんだって語り終えて思い知った。同時に、なぜこうもコーチングの場とそうじゃない場をスパッと分かれさせようとしているのか?次になる問いもRyoji☆の中で出て来た。

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普段の世界でのコミュニケーションにおいては、関わる相手の属性や能力を確認する形で進む。自分と相手のとの間には距離があって、相手の表面に見える、属性や能力を言い当てることに終始している感じ。だから、仲良くなっていくってプロセスがなかなか展開していかない。時間がかかる。

コーチングの世界では、一瞬で場が変わる。その空間は温泉で満たされる。いい気分で開く。この時、あたる焦点は、時空間を超える。時間軸で言えば{過去・現在・未来}。空間軸で言えば{日本・地球・太陽系・宇宙}[普段の世界だと焦点は、私の表面にだけに止まる]コーチと共に緩んだクライアントさんは、自分を超えた何かと繋がり、自分自身が最も自然体で居られる在りようへ収斂する。

その時、Ryoji☆の目の前の大地には、火鉢が3つぐらい置かれていて、静かに熱い。熱を持っている。普段の世界からコーチングの世界へ切り替わった瞬間、その火鉢の火は大きく燃えて、相手を炎で包み込む。その火鉢はRyoji☆の丹田にある「生命の泉」と繋がっている。普段活性化しないと、エネルギーが湧いてこない「生命の泉」が、事コーチングの場合、もうそれが始めからあふれ出して火鉢状態で待機している。

実はRyoji☆は他者に繋がりたいって欲求が大きくて、お節介の傾向が強い。しかし、同時に他者が怖いっていう気持ちも強く、普段の世界では不安で緊張モードで警戒している。コーチングの世界では、その怖れの気持ちがどっかにすっ飛んでしまい、相手のちょっとした事に対して、好奇心の炎で襲いかかり、解き明かさずには居られない!って熱量が上がる。

クライアントさんの収斂の繋がった在りようがわかると、それがRyoji☆に響き返ってくる。もし元々Ryoji☆にあるエネルギーだったら「そうだよね〜」だし、もしRyoji☆にないエネルギーだったら「このクライアントさんにとっては、これがエネルギ−が上がることなんだ。今のRyoji☆には感じられない。だけど、これがエネルギ−なるって方もいるってことは覚えておこう。将来Ryoji☆も同じポイントでエネルギ−が上がるかも知れないから。」となる。この繋がりのエネルギ−の響き合いが、Ryoji☆はとても好き。だから、Co-Active Coaching好き。

[Coaching]2016年WishList100を振り返る

今年1月、Mさんから久し振りにメールがあり、直感で、今Ryoji☆はwishlist100を創る作業をやった方がいい気がするからワークショップ(WS)参加しない?とのことだった。

Ryoji☆はコーチングを学ぶと同時に、手帳に日付を入れるじゃないけど、こうなったらいいに期限を付けると実現率が上がるというのを知識として知った。しかし、これが著しくRyoji☆の志向性と合わなかった。まるでやる気が出ないし、そんな目標立てたら縛られてしまってキツいだけだ!としか思えなかった。

しかし、MさんはRyoji☆にとって大恩のある方で、そのMさんの直感は信じようと思った。加えて、確かにMさんの言う通り、今までの強烈な拒絶反応が薄くなり、ちょっと試してもいいかな?という気持ちの変化もあった。

1月のWSに参加すると案の定20ぐらいで思いつかなくなる。そこはさすがの運営で、こんな視点でみたらどう?ってガイダンスに委ねてやっていったら、なんとか80ぐらいまでひねり出した。
最後に今日はスタートの新月で、12月の満月の日に改めてやってどうだった?か?振り返りをやりますよ!と言われ、手帳に書き込み、その日を楽しみにしていた。

で、12月。参加者3名でこじんまりとゆったり2016年を振り返った。

実現率という尺度から測ると、80のうち実現したのは40くらいで、そんなに高くない。しかもその通りってよりは、状況によってこう変化したなぁってモノも含めてなので、甘めの採点での評価だ。
だけど、問いを受けて語りながら、意図して実現させ達成したという感覚が強くて、初めてこれが達成感って奴か!とも思えた。かつ、Ryoji☆の人生を今年は過ごした!と思えた。しかも結構いろいろやってる!Ryoji☆的には家族との時間を大切にしたかったのだが、あれもやったこれもやった。あそこに行った!とちゃんと実現できていて嬉しい。

クリーンランゲージのおかげで、Ryoji☆の学び方のモデリングがハッキリしたから、経験して失敗したことは身になるのがよくわかる。そして、仲間の大切さも。今年もいいなぁって思えたやったことは、人が運んで来てくれた。新たな出会いが新たな扉を開き、それが楽しい。

意図を貫くってよりも、そうしたハプンしたことにフォローした方が面白いのもわかる。直線で進むことは珍しくて、螺旋で少しずつ起きてゆく。

でも意図がないと、そうした流れも生まれない。だから、意図も大事。

Mさんがシミジミと、Ryoji☆は何だか言ってコーチングが好きなんだね〜と。そして、Ryoji☆はちゃんとここにいるようになった。言葉と存在が一致していると。

クリーンランゲージのおかげで、数々の痛い目に合いながら、それでもコーチングに立ち続けようとするのは、人にお節介だからというのがハッキリした。

で、これまでは自覚したと思っても、疑問もまたしばらくすると生まれてきて、底がわからず苦しかった。しかし、クリーンランゲージのモデリングのおかげで、ジタバタしてもヤッパリRyoji☆はこうするっていうのが見えた。だから、Ryoji☆はここにいられるようになった。

そしてやっとコーチングを学び始めて10年経って、ビジョンに向けて歩むってどういうことか?腑に落ちた感じがする。Dannaが言うように、ビジョンを描くって特に難しいことじゃない。人間しょっちゅうやってること。大事なのは、意図を明確にするってこと。ブッダが説いたようにこの世界は諸行無常。だからこそ形而上学的にこの世界をどういう風に見えているか?によって、この世界が私たちに返す反応もまた変わる。だから、そんな世界で唯一頼りになる指標がwishlist。自分の意図を放つことで、起き得る未来を引き寄せる。そして、意図を固定したものと考えるのもまた間違い。起こる諸々の事象を楽しみ、変化に身を委ねること。

そして、それが可能となる境地こそ、私はここにいます、なんだ。

[CleanLanguage]Ryoji☆の学びのパターン

今回こんなにも簡単な事が全然覚えられないRyoji☆に直面して、我ながらビックリした。いくらやっても全然頭に入らない。コーチングの学び立ての時もそうだったけど、言い回し、こういった言葉使いの発想自体がRyoji☆の頭の中に出来ないと出ないんだって、改めて再認識。しかし、それがあるにしても、クリーンランゲージの言葉は全然覚えられなかった。

で、認定試験の後、クリーンランゲージ受講生の忘年会にそのまま参加した。そこで、既に認定を取られたHちゃんと話す機会を得た。みんなへの自己紹介の中で、認定を取られた後も熱心に勉強会に参加されていると他の方からのHちゃんの紹介を伺って、「なぜ何だろう?」と興味が湧いた。で、思い切って訊いてみた。少し間があった後、真剣に答えて下さった。

認定取るまでは「やり方を学ぶ」学びで物にした。それは言わば「受験の学び」。だから、技法としては出来るようになったし、認定もいただけた。しかし、そこからこれは自分にとってはどういうことなのか?自分の在り方が定まらないと、機能しないアプローチだと気がついた。だから、認定後、自分の「在り方の学び」のために勉強会へ参加している。

別の参加者のIちゃんと帰りの電車でご一緒させて頂いた際、本人に意欲があって、あと一歩で若葉マークの認定が取れる!って所で、クリーンランゲージの学びを止める方の話を伺った。Iちゃんの見立てでは、20代の人が多い。クリーンランゲージやってると、自分の中の嫌いな部分もクッキリ自覚される。そこを乗り越えて、次がある訳なんだけど、理想に燃える20代はそこを刺激されるクリーンに耐えられないみたい。だから、その辺の人生経験がある30代40代にならないとその壁を越えて認定までたどり着けないみたい。

ははは。今まさにRyoji☆も、自分の学ぶ力の無さに直面して苦い想いをしてる。この無能さを自覚するのは痛い。

翌朝、Hちゃんの「受験の学び」って表現で、ピンと来た。Ryoji☆は受験の時、同じように受験勉強が全然身に入らず苦しんでいた。「やり方の学び」に関してはダメダメなんだRyoji☆は…と苦い気づき。で、さらにあっ!と気が付いた。これ小学校一年生と小学校二年生の時も経験してる痛さだ!つまり、Ryoji☆の学びのパターンだ!

 小学校一年生の時の事は本人記憶からスッパリ抜け落ちていて、大きくなってから母から「あの時のあなたはね〜」話で、「そうだっけ?」って記憶になってる。
小学校一年生の時は時折ひどい癇癪を起こして、ご迷惑をおかけしていたらしい。どうもひらがなの「の」の字がうまく書けない!と泣き叫んだらしい。

 小学校二年生の時はハッキリ覚えてる。九九が覚えられなくて泣き叫んだ。特に6*7と7*6が何度やっても覚えられなくてわめいた。その時は家族総出っ九九カードを作ってくれて、助けて貰って乗り切った。

この頃は苦しくても言葉に出来なかった。「やり方を学ぶ」のやり方では、Ryoji☆にとって学びは苦痛にしかならないし、ここの領域ではRyoji☆は無能なのだ。忌々しいのは、頭では何が起きているのか?わかっているし、これぐらいは簡単だろうと予測が付くのだが、それに反して全然できない。だからこそ、なんでできないんだ!ってRyoji☆がryoji☆を責める形になる。

Co-active coachingを学びに行って、ワークショップって学びを知り、初めて「学びが楽しい!」って思えた。内側にモヤモヤが溜まって、あれか?これか?考えて、Ryoji☆の体験の底と参照して、ピッタリな言葉やストーリーを見つけ出した時、喜びを感じる。かつ、他人の体験を聞くのが楽しい。その人なりのロジックがあり、悩みがあり、「紋切り型の答えじゃなく、その人にあったピッタリな何かは何だろう?」と思うと、すごくよく頭が回る。
加えて、他者の存在が欠かせない。人によって違う学びを見せてもらうと、Ryoji☆にとってはどうだろう?と問いが廻る。この中で閃くことが多い。

その意味でCo-active coachingでの学びは、Ryoji☆人生史上初めて、学びが楽しいと思えたし、人よりも言語化する力が秀でているとわかり、それが他者への助けるになることに、自分を使い切った感じがあり、その世界に魅了された。

そのうち、この作業が苦手な人もいると知るようになってビックリした。そうなんだ。言葉にするって人によっては大変なことなんだ!

Ryoji☆にとっての学びは、頭で「やり方」を学んでも、全く応用できない。だからこそ、経験して腹落ちしないとRyoji☆にとっての学びにならない。

バレエダンザーの熊谷さんが「わからない」を連発することに対しての解説した記事の内容が今でも印象に残っている。動きをまねる「やり方を学ぶ」レベルでは、もちろん熊谷さんにもどういうことか?わかっている。「わからない」と言っているのは、「在り方の学び」、自分自身の内的な感覚とどこまで通じているか?が「分からない」と言っている。その解説記事は、そうした熊谷さんのことを褒めていた。


ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーが唱えた多重知能理論(MI理論)でも、人の知能は多重に成り立っていると提唱している。従来の学校教育が、主にペーパーテストで測れる範囲しか、子どもたちを評価してこなかったことについて、ポートフォリオ的評価を使って、知能のいろいろな側面を評価しようという動きが出て来ている。

Ryoji☆は幼い頃から「やり方を学ぶ」系の学びが苦手。逆に「在り方の学び」は得意。いったんRyoji☆内感覚として掴むと、使いこなすことができるようになる。そして、そのためにリソースとして仲間が欠かせない。仲間とどういうことを学んだか?振り返ることで、やっとRyoji☆内の感覚との違いからRyoji☆にとっての学びを自覚することができる。

[CleanLanguage]クリーンランゲージの学び:認定試験二日目

結果、不合格だった。

 本日2回やったうちの2回目は、自分の中では今できる精一杯をやりきった感があった。しかし、フィードバック(FB)を聞いてとても納得。「メタファーを成熟させたら、空間を特定し、次に時間を尋ねなさい」と教えられていたにも関わらず、空間特定をせずに、すっ飛ばして、時間を聞いてしまった。結果、クライアントさんから「プロセスはわかった。だけどね…」と足りていなかった部分を教えていただいた。「空間特定をされると、クライアントさんの体験がランドスケープへ写しとられる。だから、改めてそれを眺めると、あぁこうなっているなら、ここに何かこんなんがあるはずと、自然とセルフモデリング進む。しかし、今回のように、空間特定をすっ飛ばすと、こういうフィードバックになって返ってくる。」

 で、Ryoji☆が空間特定をやらなかったのは、昨日の2回のセッションで、「Ryoji☆はジャスチャーを見逃している!」とFBを受けたので、今日はそこは見逃すまいと必死だった。だから、FBも「努力の跡は認められる」とおっしゃっていただけた。
で、ジャスチャーで示すぐらいだから、場所は分かっているだろうと、勝手に思い込んで、問いを省略してしまった。
 FBをする前に「今のセッションでの{ある一部の}絵を書いて」と言われ、絵を書いた。「○○はどこ?」と聞かれ、「たぶん○○はここだと思います」と答えて、ニヤリ。「それはクライアントさんがそう言っていた?」「いや、言っていませんね。Ryoji☆の思い込みです」とまで来て、「あぁ!聞いてないや!」と分かった。
 「ジャスチャー」だけでなく、「動作」もちゃんと尋ねておくべきだった。
 Ryoji☆の欠点は、名詞には質問しようとするのだけど、「ジャスチャー」や「動作」への問いが全くない。
 だから、今回の結果はとても納得。今できる精一杯をやった。
 なので、FBを聞いて、今までの緊張から解き放たれたこともあり、スッキリした不合格となった。かつ、次に向けて一体何を自分が努力すればいいのか?明確になった。
おそらく次に認定を受ける時は、余裕で受かるなって直感がある。
「あなたはこれからクリーンランゲージを使っていく人だと思うから、あと一歩まで来てはいるけど、甘く評価せず、認定はあげられない」と言われて、「そうですよね」ってニッコリ。その評価に納得って感じと、そうそう何が何でもクリーンランゲージをマスターしたい人なんだって想いで、そういう観点からなら余計そうしてもらった方がいいって感じ。


 そして、今日最初のセッション試験では、これまでにないほど、緊張した。走馬燈のように蘇るのは、大学受験の失敗。ある種、大学へ行くしかないと思い詰めていた。だけど、全く受験勉強に興味が持てず、試験の点も上がらない。そして、これはRyoji☆にとって、Ryoji☆が何かやろうとするとそれは失敗するという思い込みになっている。これは、繰り返し思い込みを強化する形で、人生の局面で示されてきた。今回、やれるだけのことはやったという達成感があるからこそ、「失敗するに違いない!」という思い込みがRyoji☆を襲った。
 深呼吸するのは忘れたぐらい緊張した。昨日のFBもあり、何としても空間や時間に関する質問をしようとする。
 またしてもクライアントさんが最初に語ったアウトカムを分析して、ストラテジーを立てるので、失敗。まだメタファー・ランドスケープの一部しか描けていないのに、それで全部を描けたと思い、空間や時間への質問へ移行してしまった。FBで指摘を受けると、確かにメタファー・ランドスケープの絵が足りない。埋まっていない空間が多い。シンボルが一つだけって有り得ない。しかし、セッション中は夢中で、これで機械的に尋ねるのではなく、クライアントさんの中心の体験に沿って質問を展開できたと思っていた。冷静になって考えると、「そうだよね」ってことにセッション中ではまるで気がつかない。


昨日今日と繰り返し出てるRyoji☆のパターンは、同一人物とは思えないほど、緊張によって発揮出来る能力に差が出る。これはこうした試験に限らず、「ここぞ!」って時に限って、金縛り状態に陥り、失敗する。よく言えば繊細。悪く言えば、プレッシャーに激弱。

今回のプロセスを通じて、長年のパターンに気付き、やっと目標に向けてコツコツ達成感を味わい、かつ、結果を出すという所まで、もうあと一歩のところまでこぎ着けた実感がある。


来年以降、ここ。揺るがないBeingがRyoji☆の課題。
ありがたい時代で、「そういう時にはこれだよ!」って情報も自然と耳にできるし、行けばこうなるってロールモデルになる方にもお目にかかれている。
だから、心配はいらない。浮かび上がるそれに従っていけばいい。

高校生ぐらいから、自分の人生こうしたいってイメージが全く湧かず、一体Ryoji☆はこの世界で何をしたい人なんだろうって悩んできた。今年年初ぐらいから、やっと内側から起こる声にフォローできている感覚があり、今この年末のタイミングで、次も浮き上がっている。多分、来年、揺るがないBeing系と、ファミリーコンスタレーション、ナラティブについては学びに行くだろうと思っている。「あぁこれだ!これこれ!」長年求めていて手に入らなかった何か?が今やっと感覚として生まれている。そして、このクリーンはそれをさらに加速させてくれるのに役立つという予感もしている。

 全体を通してのFBに、Ryoji☆の周りの人に、「クリーンランゲージを学んだことで、Ryoji☆に起きた変化について尋ねてご覧なさい」とご提案をいただく。いち早くTさんが、「同じ人物が書いたとは思えないほど文章に違いがある」とご指摘をいた
だいた。Ryoji☆には、何がどう変わっているのか?サッパリわからない。もし変化にお気づきの方はコメントをいただけるとありがたい。

[CleanLanguage]クリーンランゲージの学び認定試験一日目

 「究極の個人指導ですよ!これが終わると合格しようがしまいが、飛躍的に実力が伸びます!」と聞いた認定試験の一日目。
 合格という目標に対しては、限りなく赤信号が灯った状態で終了となった。
絶望的とも言えるし、祝福されているとも言える状態。


 Part?で、その奥深さを実感し、「ちょっとこれは短期間でどうにかなりそうにない(涙)」と一時は当初の一気に駆け抜ける計画を手放そうとした。しかし、まさにそれをテーマにセッションをやってもらった結果、「腹をくくってやれるだけやってみよう!」となり、やれる範囲の精一杯をやりきって、Ryoji☆にしては珍しく達成感を感じながら迎えた初日だった。これまでの練習からこの初日はなんとか乗り切れるだろうと予想していた。

 甘かった。

 なんと、セッションの開始の言葉で躓いた。言われる分には、「ふんふん」で済んでいたのが、いざ自分が口に出して言うとなると、「なんて言っていたのか?」全く思い出せない。
 「部屋から出てテキストを見てやり直してください」と言われて、テキストをくくっても該当箇所を見つけられない。焦る。やっと見つけた言葉が、全く頭に入らない。焦る。音読しても全然記憶できない。たったワンフレーズなのに!

 クリーンは繊細なので、言葉遣い間違いが致命的で、これまでも手厳しく指摘を受けるたび、「あっちゃー」と思ってきた。

 このワンフレーズはRyoji☆の使う言葉使いにない。
 こうして冷静になってみると、コーチングを学び始めた最初もそうだった。そういう言い方とか、質問をRyoji☆はしない。(コーチングに関しては今は大丈夫)だから、口にできない。
 相手の自由度を尊重し、委ねる言い方なのだけど、そういう風に言ったことがない。言わない。

 で、その後、このセッションで言われた通りの新しい3つの手順をこなす所までで、Ryoji☆が処理できる量を超えた。クライアントさんが言う言葉が、言われている言葉はわかるし、リピートもできるのだが、全然頭に入らない。

 結果、フィードバックで「シンボルを見落としているよ」と言われ、「あっ!」となった。「あ!シンボルあった!」セッション中、あれだけ発展させるべきシンボルが見つからなくて、困って、違っているだろうとは思いつつ、全くピント外れの箇所からのアプローチを試みて、おそらくクライアントさんも「さっきも言ったよ!」と内心思いながら、全く同じ言い回しで説明してくださっているのだが、その言葉を拾えない。(セッションが終わって、記録を見直した何度も同じ言葉を繰り返していたのがわかって、「あっちゃー」と案惨たる気分になった。)

 で、シンボルが発展できないので、シンボル同士の空間や時間について尋ねることすらできず、今回のセッションでの評価ポイントが評価できない。明日のセッションで、その能力を見せてもらわないと、通す訳にはいかないと言われ、グーの音も出ない。仰る通り。

 かつ、同じことは、言葉の捉え損ないだけでなく、クライアントさんのジャスチャー把握でも起きていた。1回目のセッションは全く見ても意識に残っていなかった。2回目のセッションは、指摘を受けて、見えてはいるのだが、そこへアプローチをしない。

 ここ数週で目を通した何かの文章に、「人はその性質から言って、見たいと思うものしか見られない。見るという行為は究極的には、主観でしか有り得ないのだ」と書いてあって、深く同意した。

 「『クライアントさんの中心となる体験』に着目して、クライアントさんの全体を見て!!」と、Part?で何度も何度も言われたことを、同じように言われる。

 今回特別ボーナスとして見稽古の場面をわざわざ設けてくださった。こういう風に冷静に、そこだけをフォーカスして「見て!」と設定されると、やっと「そうか!成る程!」とわかる。クライアントさんからサインとして、言葉だけでなく、ジャスチャーが添えられることで、ちゃんと「ここですよ!」とやってくださっている。
 しかし、これまでもそうなのだが、こうした単一タスクならこなせても、「リピートバック」や「次の質問を間違えずに言う」という現時点でのマルチタスクをこなすとなると、全く見えなくなる。処理量が多くて、今のRyoji☆がやれることを超えるのだ。

 今思うとPart?で、ここが理解の最難関で、クリーンの質問の度にアップデートされるシンボルに「何がどうなっているのか?」理解の範疇を超え、一体何がどうなってそうなったのか?サッパリわからなかった。わからないながら理解したのは、シンボルは上書きされる。かつてのAというシンボルが発展することによって、Bというシンボルに置き換わるということだった。わからなかったのは、なぜAがBになったとわかるのか?(クライアントさんも、ファシリテーターにも)だった。

 今回指摘されたのは、「いったん『これ!』と決めたら、しつこくそこへアプローチするよね」って事だった。
 そうRyoji☆はクライアントさんのランドスケープのアップデート具合がわからないのだ。わからないから、Ryoji☆が分かった範囲に拘るしか無くなるのだ。
 「なんで見てないの?」と言われても、「見ている」し「わかっている」。だけど、「クライアントさんの中心となる体験」の上書き具合がわからないから、そこへアプローチできない。Ryoji☆の認知からこぼれ落ちる。


状況はかなり絶望的。
Part?受講時に感じた難しさが、Ryoji☆にしてはめずらしくこれだけやった達成感の後でも、そのままある。

かつてコーチングを学んだ時は、その度に涙していた。なりたいのに、成れない。そして、成れない理由はいくらでもあった。でも、どうしてもなりたくて、泣きながらやり続けていた。で、Ryoji☆には仲間がいてくれた。


受講料のプレッシャーと、これに不合格だと、次の受験が、少なくとも4月以降になり、相当間が空く。不合格のまま、モチベーションを持ち続けられるのだろうか?



インプロの「解決社長」的に考えれば、これはチャンスでもある。
「見ている」し「わかっている」ならば、あとは『クライアントさんの中心となる体験』がどうやってアップデートされているか?糸口があれば、後はできる潜在力がある。