[CleanLanguage]アウトカム(outcome)よりプロブレム(problem)を語りたい

この週末は来週のクリームランゲージの認定試験に向けて、やれる範囲の練習をやった。で、ファシリテーターとしての数々の未熟さも痛感したのたけど、今のクライアント感覚を忘れる前に書いて起きたい。

これまでクラスや練習で、そもそもの設定自体で悩み系のクライアント役は注意深く回避されて来た。練習が続くとネタ切れで、いよいよRyoji☆の真骨頂、苦悩するRyoji☆が登場するようになって気が付いた。
あれ?PROモデルのOについて質問されているのに、いかにRyoji☆が苦悩したか!、つまりPを語りたがっていることに気がついた。練習なので、さすがにPだけ返すのはまずいと、Pをひとしきり語った後、添え物としてOを語るようにした。

実に苦しい。改めてクリームランゲージの基本フレーム自体かOを語る時にどうするか?で前提から満ちているだと実感した。

そして、そんなRyoji☆のクライアント体験とは別に、練習であたる事例で、同じようにチラチラとP発言混じりのセッションに遭遇した。

最初は全くPを無視してセッションをやり続けた。最後のクライアントさんのフィードバックで、Oについて訊かれたが、気持ちの上でずっとPがモヤモヤとあって、十分Oに浸れなかったと言われた。

二回目、同じようなことをやりかけた。クライアントさんが上級クライアントさんで、Pを無視してOへ焦点を移そうとするファシリテーターのRyoji☆を制して、「ここの時こそ、PROモデルの対処方法を使うんだよ!」とリアルタイムで教えてくださった。

三回目。どうも最初の問いかけへの返答の中にPらしい発言が含まれていたので、PROモデルの対処方法を実践した。しかし。一度の対処ではPの勢いは止まらず、数回Pやremedyらしき発言が続き、度々対処した。結果なんとかシンボルが出てくる所までは発展させることができた。

Ryoji☆のクライアント体験とファシリテーター体験を含めて考えると、クリームランゲージにおいてはクライアントさんか今ここでリアルに感じている体験は何か?中心の体験は何か?を見なさいと指導される。ついつい関わる側としては、Pに首を突っ込むのは怖いので、安全なOへ問いかけを向けようとする。しかし、クライアント体験からすると、例えPであってもPがあってのOと、PなしOじゃ、意味が違う。一番嫌なのは、Pな気持ちを無視されること。Pがあることをリピートバックして、あることを認知して欲しい。(ここはカール・ロジャーズの伝え返しの議論と共に、深めたい部分。今の直感だと、共感というよりも、そういう状況ではそう感じざろう得ないってことへ認知して貰いたいのかも知れないと感じている。)
そして、Pについては饒舌だけど、Oについては途端に語ることが無くなるRyoji☆に気付く。こんなにもOを語れないってことは、それだけPに見方がベッタリってこと。

[CleanLanguage]Ryoji☆は人に関わるのが怖いんです:NCRW再考

2005年3月のCTIの応用コース、フルフィルメントで、3日間のワークショップが終わった時、腰が抜けて立てなかった。当時それはなぜだったのか?分からなかったし、その後も長い間謎だった。そして、バランス、プロセス、ITBとコースを進むたび、ワークショップリーダーに3日間の関わりをお礼に行って、リーダーから2言、3言言われると、号泣していた。何がそんなに琴線に触れるのか?さっぽりわからなかった。特別な言葉を言われた訳じゃない。コース中ずっと言われていたことを繰り返して伝えてくれただけ。だけど、泣けて泣けて仕方がなかった。


People are naturally creative, resourceful, and whole.(略してNCRW)


頑張ってコーチングをしようとすればするほど、クライアントさんの一挙手一投足過敏に反応し、コーチングできなくなるRyoji☆が浮き彫りになり、人に関わる前にRyoji☆自身をなんとかしないと、関われないのが辛くて、苦しかった。理屈ではわかる。すべてはクライアントさんはNCRWだという在りようからコーチはぶれない。でも、できない。気が狂いそうだった。

まさに映画のマトリックススターウォーズヨーダが語る通り、「あれ!」なのだ。

11/19(土)クリーンスペースのセッションを受けて、この10年来の謎が腑に落ちた。


Ryoji☆は人に関わるのが怖くて怖くてたまらなかったんだ。


言いようによっては、「感受性が豊か」とも言えるけど、別の言い方をすると、ガラスの心臓で、人に関わるのが怖くて怖くてたまらない。だから、「相手に嫌われたくない!」のがマストだった。
その癖、とてもお節介で、人を助けたくて堪らない心を持っている。だから、クライアントさんがちょっとでもハイドリームを語ると、飛びついてしまう。そして、少しでもロードリームを語ると動揺して、「Ryoji☆の対応が何かまずかったんじゃないか?」と、クライアントさんを全く見ずに、Ryoji☆の内面に焦点を合わせてしまい、頭が真っ白になる。クラアントさんにすれば「共にいる」感がゼロ状態になる。

大学時代に友人からアサーションって考え方を教えてもらって、理屈はわかっていた。そして、どうすれば、人を傷付けず、自分の思いも伝えられるか?を学んだ。

しかし、この学びは、頭の知識レベルで、全然腹落ちしてなかった。だから、実践はからきしだった。

2005年3月のCTIの応用コース、フルフィルメントでRyoji☆は人が本当に関わる可能性を見せてもらった。コースを共にする仲間の愛が場に溢れて、すごいエネルギーだった。

人に関わるのが怖くて怖くてたまらないRyoji☆と、人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆がいて、そのバインド状態で、全く人に関わることができなかった。

だから、初日、「近寄ってくるな」オーラ全開で座っていた。基礎コースで何かが決壊して、人に関わるのが怖くて怖くてたまらないRyoji☆を維持できなくなっていて、以前のRyoji☆でなくなるのが怖くて、そうするしかなかったんだ。

そしたら、何と2人も話しかけて来た!その内のAさんには、後日、話しかけたらRyoji☆はすごいまとも過ぎて、詰まらなかったと言われた。(苦笑)そして、そのうちのSさんは「面白いね!」って笑ってくれた。

そして、最初の3人組で、Sさんがコーチで、Ryoji☆がクライアント。Kさんがオブザーバーだった。で、「基礎コースで見つけた在りたいあなたは何ですか?」と聞かれ、何かがはじけ飛んだ。人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆が目を覚ましたのだ。

後はほとんど記憶がない。3日間のワークショップが終わった時、腰が抜けて立てなかったことだけ、よく覚えている。

だけど、人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆が身体で感じたのは、こんなにも人って人と繋がりたがっているし、そのあるがままにOKを出し続けること。安心安全な場で、その人の内側に眠る光が溢れると、なんとも言えない満たされが、身体全体に満ち、あぁこんなにも人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆の声をRyoji☆の内側で押さえつけていたんだ…。

そして、それは、そういうプロセスを今は通過中。その途中を一緒に同伴させてもらっただけ。私はあなたのプロセスを信じ、ここへ居る。それは祈りでもあり、人の可能性だと思う。

で、一瞬、有り得ないことをやっているRyoji☆を知った。

そこからの10年は、
 人に関わるのが怖くて怖くてたまらないRyoji☆
 人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆
をどうRyoji☆の中で受け入れるか?の旅だったんだ。

有り得ないことをやれたRyoji☆はどうしてもこれを物にしたかった。だって、それは
人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆の望みだったから。

でも、できない。

人に関わるのが怖くて怖くてたまらないRyoji☆が暴れてしまう。

おそらくコーチ仲間には、人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆が見えていたんだと思う。どうしてもそうやってしまう。それがRyoji☆なんだなぁって。
 でもRyoji☆は受け取れない。
 人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆なんて、Ryoji☆の内側のどこにもいないと繰り返し繰り返し、受け取りを拒否した。
 だって、感じるのは、人に関わるのが怖くて怖くてたまらないRyoji☆だけ。どうやってもNCRWができない。「一つの意図だ」と頭で押さえつけようとしてもできない。


尊敬するフォーカシングの伝え手のアンワイザー・コーネルさんが
「The radical acceptance of everything」という題名の本を出したと知った時は、心底驚いた。有り得ない題名だと。Ryoji☆には、いくつも受け入れることができないことがあった。無理だと。

11/19(土)クリーンスペースのセッションで、Ryoji☆がやりかった関わり方はこれだったんだ!って改めて実感した。
とにかくクライアントさんのプロセスを邪魔しない。出て来たものはクライアントさんのもの。いいも悪いもなく、ただ今はそうあるだけ。実にシンプルで、エレガントだ。後は、クライアントさんが学習する。どうしようもなく、できたものは、自分100%。なんの混じりけもない。説得され、認めざろうえない。これは私の物。
で、これが在り在りとある私はこれからどうしたいのか?それはクライアントさんの学び。ファシリテーターは何もできない。

フォーカシング、CoActive Coaching、そしてクリーンランゲージ。
この3つの技法があれば、Ryoji☆には十分。

人が人を尊重する、その繊細さはここに極まった。

「The radical acceptance of everything」が実現できた時、NCRWもまたそこにある。

それには、Ryoji☆自身の
 人に関わるのが怖くて怖くてたまらないRyoji☆
 人を助けたくて堪らないお節介Ryoji☆
を許し、認め、その両方があるのが全ったきRyoji☆なんだ。

今の解釈だと、リーダーにあの時言われたのは、「これはペイフォワードだよ」って。「今は確かにRyoji☆はできないかも知れない。でも、もう知ったよね。分かったよね。だから、次にRyoji☆が関わる相手に是非、同じことをしてあげて。人が人に関わる可能性に満ちた時、こんなにも人は愛おしいんだと。」


これまでRyoji☆に関わり、惜しみない愛を送ってくれた全ての仲間へ感謝を込めて。

[CleanLanguage]「とくちゃんは考えすぎ」の意味

知り合いのコーチに「とくちゃんは考えすぎ!」(笑)と言われることがあり、戸惑ってきた。その方は比較的ハッキリ言ってくれるので分かりやすい。(注:こうして端的に伝えてくれると響くので、受け取りやすい。)その方だけでなく、他の方からもやんわりと同じ趣旨のことを言われることが多く、それって一体何を言われているのか?がRyoji☆の中でよくわからなくて困って来た。

というのも、ストレングスファインダーで上がった才能に「内省」があり、ああだこうだ、ブツブツ考えるのは決して悪いことではないと思えて、なんでそれがそう指摘されるほど、過剰と言われるのか?それともRyoji☆が気がつかない何か別のことを言われているのか?判断が付かなかった。

先日クリーンランゲージの個人セッションを受けた。「クリーンランゲージを学ぶことで何があなたに起きればよいですか?」という問いかけから、Ryoji☆のシンボリックモデルを展開したところ、やっとそういう言われているであろうことの正体が明確になって、腑に落ちた。そうか!それを言ってくれていたのか!

エニアグラムのタイプ6と考えると、受け取りやすさが加速する。
Ryoji☆の世界への関わり方の根底に、世界への恐怖がある。だから、Ryoji☆の全エネルギーを使って、この世界がRyoji☆に害を与える可能性とその回避方法を必死で集めようとしている。そして、大きな地図を書いて、危険レベルの印を付けている。いったん地図に書き込まれると、地図の方が優先され、現実を受け取ることよりも、Ryoji☆が描いた地図の正確さに固執する。全力で世界を決めつける。だから、世界とはRyoji☆が情報収集し、組み立てたようにあるべきなのだ。最悪のリスク警戒モデル通り。


Ryoji☆のシンボリックモデル表現だと、Ryoji☆から外へベクトルが伸びている。

ここにエネルギーを使い、そして、なぜRyoji☆はそう描かざろう得なかったの、延々と長い言い訳が続く。

しかし、フォーカシングやプロセスワーク、そして、クリーンランゲージが起こすのは、Ryoji☆のシンボリックモデル表現だと、外からRyoji☆の内側へベクトルが伸びている。しかも、今回明確になったのは、2段階。1段階は人工的にどう起きているのか?をRyoji☆内で実験する。2段階目は、より深くなり、自他一体の時空間そのものが何をRyoji☆に告げようとしているのか?へ進む。恐るべきことに、この2段階目の境地は、ブッダが慈悲と語った境地に近い。存在そのものがいとおしい。倫理的な意味で無く、そうとしか感じれない世界の境地なのだ。


「とくちゃんは考えすぎ!」(笑)で、その方が指摘したかったのは、世界をあるがままに受け止める。ただそれだけのシンプルなことであるはずなのに、Ryoji☆は常に膨大なエネルギーを費やして、それがそうである理由を延々と述べ続けるようとする。なので、「とくちゃんは考えすぎ!」(笑)でしょ。そんなに肩に力を入れて、かつ真剣に語ることはないじゃないの?と、ついつい言いたくなってしまう。

10年かけて、いろいろやってきたおかげで、クリーンランゲージでRyoji☆のシンボリックモデルを探求すると、あぁ、確かに「とくちゃんは考えすぎ!」(笑)だ(苦笑)。いろいろ言いたくなってしまうのだけど、そこを語っても生産性がない。それを語れば気持ちのすっきり感はある。しかし、本来起こしたいのは、今ここで起きていることを手がかりに、私たちの関係性を新たにしていくこと。そのために何ができるのか?だったのだから。

コーチングで何度やっても、延々と語る癖を止められなかったのだが、今回のセッション一発で、もうそれができなくなってしまった(涙)
物心ついて以来培って来た思考パターンを変えざろう得ず、ある意味、クリンランゲージの威力にすごさに困った。
苦悩好きだったのに、苦悩に浸ることが意味がないと、これ以上ないほど納得した。

[CleanLanguage]クリーン・ランゲージから考えるストレングス・ファインダー

クリーンランゲージを学んだことで、人が才能をどう受け止め使っているか?理解が深まった。

ストレングスファインダーは行動を尋ねることで、行動からどんな才能があるか?を統計処理で明らかにする。

この人より上手く出来る才能というのは、本人は得意だから意識せずやっているので自覚しにくい。逆になぜ周りと人は自分と同じように出来ないのか?が理解出来ない。かつ、本人の認知と実際の行動が異なっていることも多く、アンケートに答えて貰う形でやってもなかなか才能が浮き彫りにならない。

そういう意味で、ストレングスファインダーは極めて優れた道具だ。ここを手掛かりに深堀していくのが望ましい。

ところが、このストレングスファインダーには大きく2つの注意しなけれはならないことが、クリーンランゲージを学ぶことから明確になった。一つは、才能を本人がどう受け止めているか?を確認すること。もう一つは、テストを受けた時点の、本人の自己一致の度合いはどうか?確認すること。

第一に、才能を本人がどう受け止めているか?で才能は強みでもあるし弱みでにもなる。

実は普段からやっている行動は、得意で無自覚にやっている行動と、嫌な状況に陥るのを防ぐために必死でやっている行動の二種類ある。前者は指摘すると本人も「それが才能なんだ」と納得する。しかし、後者は指摘すると本人の怒りを呼ぶ。それは回避行動で、好きでやってるんじゃない。むしろ呪いなんだと。

少し考えればわかるが、才能が強みになるか?弱みになるか?は紙一重。あとは本人がそれをどうしたいか?にかかっている。嫌悪して弱みとすることも出来るし、強みとしてそれか活きる状況を生み出したり、それが起きやすい環境を選んだりすることか出来る。

ここを考えるとよいのは、ないものねだりが無くなることだ。ついつい自分にはない他人の才能がうらやましくなる。妬みの感情は厄介で、一度取り付かれるとなかなか消滅させることか難しい。しかし、自分の才能がハッキリするとは、苦手なこともハッキリするってことだ。つまり、いくら羨んでも、その才能が自分にとって苦手なのは変わらない。羨む暇があったら、自分は自分が出来ること。相手が相手に出来ることをそれぞれが専念して、協力しあった方が早い。悩むべきポイントは、ないものねだりではなくて、どうお互いの強みを組み合わせられるか?だ。

クリーンランゲージを使って、どの才能が好きな才能で、どの才能か嫌いな才能か?明確にすることも大事だ。その後はコーチングで「どうしたいか?(何が起きればいいか?)」を援助してもらったり、セルフモデリングを自分で進めてもよい。

大事なのは、自分の才能をあるがままに、クリーンに受け止めること。


二番目は、ストレングスファインダーを受けた時の自己一致具合はどうか?だ。
ストレングスファインダーの構想では、このテストは何度受けてもそう順位に変動がない筈。ところが周りのコーチで何年か経って受け直したら、「かなり変わった!」というコーチが多い。例が少ないので、Ryoji☆の推測なのだが、それはBeingの変化によるのではないか?と思っている。

それまでの人生、世間がこうした方がいい、こうすべきたという人生を送ってきて、それに必死に自分を合わせようと努力してきた。そこで、磨かれた後天的な「才能」(怖れに基づく行動)がある。

ところ、こうしたコーチングやセラピーなどを受けて、一枚一枚薄皮を剥ぐように、ありのままの自分が出てくると、どの状態が無理のない状態か?やっと内的に感知できるようになる。すると、やらなくていい行動が減り、無理なく出来る好きな行動が増える。おそらく内的なメンタルモデル自体に大きな変動はない。本人がそのメンタルモデルに自信を持って行動し、健全性が増すので、より本質的な才能が浮き上がるのだろう。

ここはぜひクリーンランゲージで探ってほしいと思うのだが、自身のシンボリック・モデルを才能を発展させ、より他者とコラボレーションが起きやすくなる。

[CleanLanguage]脳と抽象と比喩と

社会構成主義を一言で言うと「Words create worlds」らしい。

クリーンランゲージで概念を比喩に置き換える作業をやっていて、動物と人間の違いは、言語や記号により抽象を扱えるようになったことだろうけど、人間には動物として超えられない壁があるんじゃないかと感じる。それは処理できる情報量。私たち人間は比喩の形で抽象を置き換えしないと理解出来ない。抽象概念や数学からすると比喩は粗雑過ぎる。だけど、言語をデコードするときには、個々の体験流に参照しないと、「わかった」にならない。それは、その人にとって処理しやすい五感を使って、比喩で「わかる」。

つまり、社会構成主義的に言えば、言葉によって想起される比喩がその人の体験流を呼び出し、その人にとっての「世界」を構成する。

これが主観が当てにならないとされる根拠なんだろう。

クリーンランゲージを学ぶ中、簡単なワークとして、視覚や聴覚をクリーンランゲージで紐解いた。個々の人の体験流の違いが明確になった。
 Ryoji☆の場合、何が正しいか?必ず体感覚に確認するパターンを持っている。過去のイメージを引っ張り出す人もいれば、視覚イメージが展開していく人もいる。
 それは、Dannaが近頃詳しく解説してくれたエニアグラムのタイプと連動しているように感じる。ラベリングとしてのその人ではなく、その人がどういう風に外界情報を処理するかというメンタルモデルであるように感じる。違うお題でワークしても、個々の人の体験流の処理の仕方は変わらない。面白いほど型がある。

だから、クリーンランゲージは恐ろしく切れるナイフのようだ。否が応でも、どんな風に体験しているか?引ん剥いてしまう。最短距離で、有無を言わさず。

科学的な言いようは、抽象こそが真の世界だ!という言い回しだった。
数学の歴史を読んで、つまみ食いで理解した範囲で言うと、数学者と言えどもこの世界を比喩で体験していることから逃れることができず、純抽象で導き出された答えに、そんな訳があるか!と反対意見を述べている。なかなか実感から逃れることができなかった。そして、おそるべきことに、こうした理解を超えた抽象の世界を、比喩から抜け出して、繋いでいくと、どうも融合するらしい。あるパラメーターがこうなった時に出現する体系がこの世界で、パラメーターを変化させると、こっちの体系になるってことらしい。。

現代確率論は、われわれの無知を「面積を考えられない図形」があるという、ルベーグ積分論の恐ろしげな事実を使って、厳密数学として表現したわけだ。
深谷賢治「大人のための最先端理科 第74回 数学確率論」週刊ダイヤモンド 2016/07/2

全然理解できないけど、五感の理解を超えている世界があるらしい。

この再現性を可能にした抽象の世界を私たちの世界へ応用することで、自然の力を私たちのために利用することが可能になった。

だから、学校教育において、主観を超えた抽象で記述する訓練を私たちは受ける。
それは、行政やビジネスの場でも、圧倒的に抽象語と数字の使用を要求する形で、欠かせないものになった。

しかし、私たち自身はまったく抽象の世界へ付いていけてない。私たちがお互いを理解しあうためには、比喩がどんな体験流を呼び出すのか?シェアしあい、世お互いがどんな主観で生きているのかを知ることが欠かせないだろう。(ここは可能性も秘めていて、チームビルディングに役立つ。)

3/9(日)「かみさまとのやくそく」x「育自の魔法」に参加

コーチ仲間が企画してくれた「かみさまとのやくそく」250名の自主上映会に参加して来ました。妻の理恵、娘の美織も一緒に見ました。胎内記憶をめぐるドキュメンタリー映画。3歳ぐらいになると、言葉も上手に使えるようになってくる。そんな幼児に生まれて来た時の記憶を尋ねると、多くの子どもたちが同じようなことを語る。宇宙のようなところに沢山のこれから生まれようとする子たちが居て、今度はこの人の元で生まれよう!って選んで生を受ける…。

学問的には、超心理学と言われる分野。科学となるには、厳密性や検証性の点で難しさがあり、おそらくこのままだろうなって気がする。

そして、この手の話はコーチはとても好き。でもRyoji☆はとても苦手。今では、それが自分の価値観 慎重さや現世主義に基づくものだってわかる。

子育てって大変だな〜って見ながら思った。
昔はこんなにもおかあさん一人の肩に子育てが乗っけられることは無かった。
だから、子育てってこういうもの!って先入観から、赤ちゃんも親もお互い不幸なんだってことが見ながらわかった。
昔は、近所のおばさんとか、親戚とか、よってたかって育てていた。
だから、追い詰められちゃうんだよね。人としての成熟が未熟だと、特に愛は憎悪に転化する。

端的に言えば、赤ちゃんにも敬意をもって、きちんと語りかけたり、説明したり、謝ったり、「痛いね〜」って共感したりしたらよい。親は自然体でいること。

その根拠として考えるのに有効なのが、それぞの子は宇宙からここの両親の元で産まれてこようと選んで生まれてくるんだ!という仮説。

http://norio-ogikubo.info/


映画終了後に、もし仮にこれが本当だとしたら、あなたの神様との約束は何ですか?と育児の魔法特別バージョンの問いかけがあった。

妻の理恵と二人でやったけど、お互い絶句。胎内記憶なんてお互い無い。

でも敢えてひねり出して、お互い聞き合う中で、ああこれは
ヴィクトール・フランクル強制収容所経験に基づく体験から創始したロゴセラピーだって感じた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
× 人生から何を期待しているか?
○ 人生が何を期待しているのか?

人間は"人生から”問われている存在。
何があなたを待っているのだろうか?

3つの価値。(1)創造価値 人の「喜び」を創っていく。プロセスとしてフローを感じる
(2)体験価値 あなたが経験したことはこの世のどんなものも奪えない。圧倒的な心ふるえる体験
(3)態度価値 ある態度をとることが私には可能
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そう考えると、生きるってことの倫理になる気がした。

NVCの夜

NVCの最初のWSに参加した。

とてもシンプルにまとめられているのが、印象的。

今晩は気になっている小話をする。それを言葉を発せずに身体で表す。感情と繋がる。そしてニーズを探るを行った。

Ryoji☆的に、救いになると思うのは、訓練したら上達するって分かること。
実際にやろうとしている、感情と繋がる。ニーズを探るは難しい。
教育のメッセージは、論理的に!なので、感情エネルギーに満たすという在りようは、禁忌とされている。よって、本来私たちが秘めているスピリチュアリティと繋がり流れることに逆らっている。だから、止めなさいと言われて来たことをやるのは勇気がいるし、うまく行かないのも当然だ。
だけれど、訓練したら上達する。それは文化人類学の知識から、人の可能性は本当にすごい。文明に頼り、そうした人が動物として持つ力を養って来なかった文明人のひ弱さなんだ。

だから、昔の人たちが使っていた力を私たちも使うだけのこと。


時空間を止めて、喜びや悲しみという感情エネルギーをしっかりと味わい切ると、エネルギーの反転が起きるというのが、動物としての性質だ。ここで味わい切らないと、外部の出来事の刺激に何度も反応するだけになってしまう。
最初は恐ろしい。
だけど体験してみたら、そうなんだと分かる。
言うなれば、世界が変わるのだ。モヤモヤが内にあり、選択を選べない状態から、その気持ちを自己了解して、空間を広げて行ける。
同じ選択行動でも、到達点はまるで違う。
選ぶ選択肢を創造することこそ人の人たる創造力の源。

ここも体験して貰えないと納得出来ない部分。

フローの流れを自身に取り込んで、生き生きすれば、その生き生きさが周りにプラスの波動を呼ぶので、正循環が起きやすくなる。

うーん。今まで学んで来た諸々のことが見事に総合されて感じられる。いい意味で、行き着いた感じだ。