[CleanLanguage]Ryoji☆の学びのパターン

今回こんなにも簡単な事が全然覚えられないRyoji☆に直面して、我ながらビックリした。いくらやっても全然頭に入らない。コーチングの学び立ての時もそうだったけど、言い回し、こういった言葉使いの発想自体がRyoji☆の頭の中に出来ないと出ないんだって、改めて再認識。しかし、それがあるにしても、クリーンランゲージの言葉は全然覚えられなかった。

で、認定試験の後、クリーンランゲージ受講生の忘年会にそのまま参加した。そこで、既に認定を取られたHちゃんと話す機会を得た。みんなへの自己紹介の中で、認定を取られた後も熱心に勉強会に参加されていると他の方からのHちゃんの紹介を伺って、「なぜ何だろう?」と興味が湧いた。で、思い切って訊いてみた。少し間があった後、真剣に答えて下さった。

認定取るまでは「やり方を学ぶ」学びで物にした。それは言わば「受験の学び」。だから、技法としては出来るようになったし、認定もいただけた。しかし、そこからこれは自分にとってはどういうことなのか?自分の在り方が定まらないと、機能しないアプローチだと気がついた。だから、認定後、自分の「在り方の学び」のために勉強会へ参加している。

別の参加者のIちゃんと帰りの電車でご一緒させて頂いた際、本人に意欲があって、あと一歩で若葉マークの認定が取れる!って所で、クリーンランゲージの学びを止める方の話を伺った。Iちゃんの見立てでは、20代の人が多い。クリーンランゲージやってると、自分の中の嫌いな部分もクッキリ自覚される。そこを乗り越えて、次がある訳なんだけど、理想に燃える20代はそこを刺激されるクリーンに耐えられないみたい。だから、その辺の人生経験がある30代40代にならないとその壁を越えて認定までたどり着けないみたい。

ははは。今まさにRyoji☆も、自分の学ぶ力の無さに直面して苦い想いをしてる。この無能さを自覚するのは痛い。

翌朝、Hちゃんの「受験の学び」って表現で、ピンと来た。Ryoji☆は受験の時、同じように受験勉強が全然身に入らず苦しんでいた。「やり方の学び」に関してはダメダメなんだRyoji☆は…と苦い気づき。で、さらにあっ!と気が付いた。これ小学校一年生と小学校二年生の時も経験してる痛さだ!つまり、Ryoji☆の学びのパターンだ!

 小学校一年生の時の事は本人記憶からスッパリ抜け落ちていて、大きくなってから母から「あの時のあなたはね〜」話で、「そうだっけ?」って記憶になってる。
小学校一年生の時は時折ひどい癇癪を起こして、ご迷惑をおかけしていたらしい。どうもひらがなの「の」の字がうまく書けない!と泣き叫んだらしい。

 小学校二年生の時はハッキリ覚えてる。九九が覚えられなくて泣き叫んだ。特に6*7と7*6が何度やっても覚えられなくてわめいた。その時は家族総出っ九九カードを作ってくれて、助けて貰って乗り切った。

この頃は苦しくても言葉に出来なかった。「やり方を学ぶ」のやり方では、Ryoji☆にとって学びは苦痛にしかならないし、ここの領域ではRyoji☆は無能なのだ。忌々しいのは、頭では何が起きているのか?わかっているし、これぐらいは簡単だろうと予測が付くのだが、それに反して全然できない。だからこそ、なんでできないんだ!ってRyoji☆がryoji☆を責める形になる。

Co-active coachingを学びに行って、ワークショップって学びを知り、初めて「学びが楽しい!」って思えた。内側にモヤモヤが溜まって、あれか?これか?考えて、Ryoji☆の体験の底と参照して、ピッタリな言葉やストーリーを見つけ出した時、喜びを感じる。かつ、他人の体験を聞くのが楽しい。その人なりのロジックがあり、悩みがあり、「紋切り型の答えじゃなく、その人にあったピッタリな何かは何だろう?」と思うと、すごくよく頭が回る。
加えて、他者の存在が欠かせない。人によって違う学びを見せてもらうと、Ryoji☆にとってはどうだろう?と問いが廻る。この中で閃くことが多い。

その意味でCo-active coachingでの学びは、Ryoji☆人生史上初めて、学びが楽しいと思えたし、人よりも言語化する力が秀でているとわかり、それが他者への助けるになることに、自分を使い切った感じがあり、その世界に魅了された。

そのうち、この作業が苦手な人もいると知るようになってビックリした。そうなんだ。言葉にするって人によっては大変なことなんだ!

Ryoji☆にとっての学びは、頭で「やり方」を学んでも、全く応用できない。だからこそ、経験して腹落ちしないとRyoji☆にとっての学びにならない。

バレエダンザーの熊谷さんが「わからない」を連発することに対しての解説した記事の内容が今でも印象に残っている。動きをまねる「やり方を学ぶ」レベルでは、もちろん熊谷さんにもどういうことか?わかっている。「わからない」と言っているのは、「在り方の学び」、自分自身の内的な感覚とどこまで通じているか?が「分からない」と言っている。その解説記事は、そうした熊谷さんのことを褒めていた。


ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーが唱えた多重知能理論(MI理論)でも、人の知能は多重に成り立っていると提唱している。従来の学校教育が、主にペーパーテストで測れる範囲しか、子どもたちを評価してこなかったことについて、ポートフォリオ的評価を使って、知能のいろいろな側面を評価しようという動きが出て来ている。

Ryoji☆は幼い頃から「やり方を学ぶ」系の学びが苦手。逆に「在り方の学び」は得意。いったんRyoji☆内感覚として掴むと、使いこなすことができるようになる。そして、そのためにリソースとして仲間が欠かせない。仲間とどういうことを学んだか?振り返ることで、やっとRyoji☆内の感覚との違いからRyoji☆にとっての学びを自覚することができる。