場を見る

場を見る。


Ryoji☆にとって常に気にして来たことなので、そこそこ読めると思っていた。これがなかなか意識してやらないと難しいことがわかった。

今回の会場は場がよくない感じだった。いるだけで圧迫感を感じる。しかし、それに気がついたのはワークをやったからだった。もしそうじゃなかったら、どこか嫌な感じを、ずっとそれと気付かぬまま振る舞っている所だった。


そして、この所のRyoji☆自身の調子の悪さは継続中。まるで借り物のように、生き生きさがまるでない。通常活性化するはずのセンサーが軒並みダウンしていた。


面白いのは、お互いのプロセス・マインドを共有すると、今その人がどんな場を展開しているのか?よくわかる。ある種「引き寄せの法則」状態。



そして何度もロストした。ファシリテータに「何度も同じことが起きているのが、わかりますか?」と促されて、ハッとした。場を見れていない。

しかも同時多発にいろんなことが起きて、マルチ・スクリーンを展開仕切れない。

Ryoji☆の調子の悪さと相俟って、単なる傍観者なのに消耗した。


それにしても、こんな天気のよい日曜日。敢えてこんな気分が悪くなることにトライするこの人たちって何者よ!奥底にある願いは、リアルな触れ合い。うわべでなく、深いレベルで人と繋がろうとする意志・願い。それが感じられるから、こうやって対立をやり取りしたとしても、信じられる。



そして何度もやっているうちに、役割とBeingの違いに朧気にわかって来た。
ブッダが「執着するな。すべては生まれ滅する。」と説いたすごさがわかる。
いかにRyoji☆が役割をRyoji☆本人だと認識して、苦しんだり、人を攻撃したり、
怒ったりしてきたか!
そこは大事にしているところだからこそ、触れられると、ものすごい反応が内側から巻き起こる。ただ、周りを見れば、他の人は何ともなくポカーンとしている。あくまでもこれはRyoji☆の痛みだけど、同時に世界の痛みでもある。見過ごされた何かが積もり積もれば、それは意識できない痛みとして残るのだ。だから、こうして敏感に感じ取り、Ryoji☆を超えて周囲と共有できれば、それは全体にとってのギフトになる。

より自由に。すべてはあるがままに。

その方が喜びが深いのだ。