自分に出来ること出来ないこと

マイコーチとのセッションで、やたらと「出来ない」「ダメだ」を連発するRyoji☆に気付いた。それは嘘じゃない。確かにそうなんだ。そういう実感がある。しかし、それはコインの片面でしかない。そうであっても出来ること、ある。

「組織開発」の考えに触れてビックリしたのは、組織改革とはどの立場であろうが可能であるということ。「トップが変わらないと変わらない」はある意味正しいけど、じゃあトップだけよければよくなるか?と言えばそうじゃない。塩野七生さんの「ローマ人の物語」に、興隆する時代と崩壊する時代。その違いの述懐として、どんな時代でも素晴らしい人材はいる。興隆時にはそんな人材に次々活躍の場を与える。崩壊時はせっかくの人材の活躍の場を奪うもしくは活かさない。とあり、深いなぁ〜と感じた。リーダーは一人でリーダーなんじゃなくて、フォローアーがいてこそのリーダー。リーダーが目立つけど、実はその人に託する周りの力って大きい。

だから組織の中でそういう状況だとしても、出来ることはあるし、その出来ることをどうするか?工夫出来る。出来ない中にいる限り、何もしないRyoji☆を肯定することになる。自分の人生に責任を持つって、「えぇなんで私なの〜」とマイナス過剰ポテンシャルで盛り上がることじゃなくて、兎に角責任あると、勝手に踏み出して考えるとこから始まる。
この差は微妙なんだけど決定的だ。そうする責任がある。そうするために私は何が出来るのか?から発想する。するとやれる余地は見つかるものだ。

コーチングに携わっていると、人が望むものは普遍だなぁと感じる。(ただし、どうやってそこへたどり着きたいか?の価値観は千差万別なので、現れとしてはみんな違う。)Ryoji☆の場合もご多分に漏れず、毎回決まったRyoji☆の理想に到達する。つまり、どんな状況であろうが、Ryoji☆はRyoji☆らしくあることを選び続ける。だとしたら、「出来ない」「私には権限がない」じゃなく、そんな中でもRyoji☆らしくやれることは何か?そしてそれを如何にRyoji☆らしくやるか?なのだろうな〜。そのためには、Why?に応えるRyoji☆自身の想いを明確にしておくことだろう。