この世界の果てで

死がいつ訪れるか?誰にも判らない。これは真理。だからと言って、死を意識してより良い生を目指すべきとは誰にも言えない。(ハイデッガーナチスを肯定したのは、大枠でここからの道をナチスの論理に感じたからじゃないかって考えている。だからこそ人間中心、理性中心の発想には注意が必要だ。)かつてブッダがある問いには、沈黙したように、言語の特質として、そういう問いを招来することが出来るものの、答えがない。もしくはいくつも答えがある領域がある。そこに正解はあってない。だけど、人はそこに身を投げ出すことが常に求められる。どれも正解で、どれも間違い。ただ日々の選択を通じて、その生を選んでいる旅人であるのは真理。
そんな世界の果てで、今日も明日を選択している。
だとしたら、世界に私はこうすると高らかに宣言することも出来る。新しい未来を今、創造することも出来る。「どうせ」と、現実と己が感じることに妥協することも出来る。そんな小さな選択が積もり積もれば、自己成就の予言のように、そうなる。
常にその輪から抜け出す狂気を人は内に秘めている。何故その一歩を人は踏み出すのだろう。それは己の生を賭けても、そう在る可能に憧れるからだ。そこに生の根源のエロスがあるからだ。
倫理の根源とは、そうした方が、人として格好よい!という美しさじゃないだろうか?世界の果てにおいて、現実と己が感じる何かと照らし合わせて、人は苦悩する。そうやって、余分な所に力が入っていると、己が己にわからん!と呪いをかけてしまう。そこで力を抜いて、その重心を世界へずらし、世界を透けて見える何かに視線を合わせた時、意図が叶う。

エンパワーメントのカウンセリング―共生的社会支援の基礎 (マクロ・カウンセリング実践シリーズ)

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