クイズ_ヘキサゴンの衝撃・父の含み笑い・生きる

お正月に実家に帰った時にテレビでクイズ_ヘキサゴンを見た。「こいつら馬鹿だ」と父(Gりょりん)は含み笑いをして、興奮のあまり、いつもならば眠る時間を過ぎて最後まで見ていた。弟(Sぶちん)は司会の島田紳助さんの意図を鋭い洞察で延々解説していた。
途中まで楽しんで見ていたが、タレントの皆さんの分からない時の格闘ぶりと、一旦正解側に回った時の蔑視を見て、だんだん笑えなくなった。
まさしく50歩100歩。この人たちは確かに間違えるけど、そんなこと関係なくちゃんと社会生活している。クイズで挙がる知識は雑学で、どうでもいいことだ。むしろ知らなくもいいことだ。
間違い方だって、分からない中、ベストを尽くしている。見ていると滑稽に見えるけど、同じ状況にRyojiが置かれたとしたら、多分やれることはそうは変わらないはずだ。
そして何より嫌だったのは、正解した途端、「お前そんなこと知らないの?」という優越感のひけらかし。見ているこっちからすると、どっちも変わらないのに、なんでそんな風に他者を貶めて自分を上げようとするんだろう。凄く心が醜かった。「外見を綺麗にする前に心を綺麗にしなよ」と言いたくなった。逆に言えば、その人はそれだけそうやって痛めつけられて来たんだろう。負が負の連鎖を呼ぶ。
そして、間違えても態度が爽やかな人がいた。「だからなんだい?」ほんとそうだよ。知らないからといって、頭がいいの、馬鹿だの、人にランキングして何だというのだろう。
そして気がついた。これには友愛がない。学びって一人じゃ貧しい。みんなで協力してやるからすごくなる。みんな違って、みんないい!ここのクイズに正解するより、この場にいるみんなで何かを創り出すことの方が遥かに大事だ。だとしたら、私たちにはもっとどうやったらお互いのベストを発揮できるかに習熟した方がいいんじゃないだろうか?

人に好かれる笑いの技術 (アスキー新書 046)

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