愛と思いやり、そしてゴシップ好き

Dさんによると、「愛のないコーチングはOKだけど、思いやりのないコーチングは絶対嫌!」だそうだ。

Fさんによると「コーチに求められる好奇心って何だろう?子どものような純粋の好奇心?ゴシップ好きな人の好奇心とは違う感じがする。」

なんて言うか、成る程!っていう感じ。

「愛のないコーチング」って聞いて、それってビジネス・コーチングだ!って瞬間的に思った。コーチング・スキルをただ使うだけ。でも、全然不快ではない。サバサバしている。ベクトルを常に私に向けてくれるので、気持ちいいほど考えが整理される。そこには、コーチからクライアントへの愛情はなくていい。でもお互いこの関係に合意しているので、それはそれでOK。機能する。愛情なんて入る余地はない?(この段落の文章はJijiの偏見に基づいています。)

でも、時としてこうした愛のないコーチングで出た結論はちゃぶ台をひっくり返すこともありうる。「うん。確かにそういった結論になったね。それが明確化されて、初めて○△□って気持ちがわかった。だったら、その結論じゃなくてこっち。」つまり、愛のないコーチングはセルフコーチングを身につけた人には機能する。それは愛がないがゆえにわかること。

「思いやりのないコーチング」。これは愛があっても駄目だとJijiは感じる。いくらコーチがクライアントのことを心から気にかけ、信頼していようが、気持ちばかりが空回りして、きしみとなって現れるだけになってしまう。独りよがりの見方を、愛があればいいでしょって感じで押し売りされる。そんなのこっちは求めていないよ。そこじゃないんだよ。あんたの私に対する愛情を聞きたいんじゃないんだよ。何一人で別世界の話をしているのさ。

ゴシップ好きな人の好奇心ってまさに「思いやりのない好奇心」。好奇心のベクトルは、常に自分。クライアントさんの世界になんぞ興味はこれっぽっちもない。クライアントさんの世界に勝手にドカドカ「何?何?」と入ってきて、ひとしきり自分の好奇心を満足させるべく、ひっかき回した後、ポイっと路上に捨て去る。無邪気で悪気はない。クライアントさんに残るのは、おもちゃにされた怒り。なんであんたに私のことを話さなあかんの!ふざけるな!しかもその怒りをむけても、その人はまるでわかっていないことがさらにむかつく。どんなに私にとってひどいことをあなたはしたのか?理解されない悲しみ。無邪気な残酷さ。

子どもの持つ純粋な好奇心はコーチに求められる好奇心とは微妙にずれているようにJijiには感じられる。子どもは非常に自己中心的だ。ある面、ゴシップ好きな好奇心と似ている。でも同時に、何のためとかじゃなくて、その子の個性で、内側から突き上げる興味の対象への関心の純粋さには、ハッとさせられるのは確かだ。何のためとかの理由はない。ただ知りたいだけ。知ってどうするもない。「そんなの当たり前でしょ」は通用しない。「どうして?どうして?」なのだ。その問いは時として、根本的な深い問いを生み出す。それが時に、ホホーとさせることは確かだ。

コーチに求められる好奇心とは、事柄を突き抜けて、その事柄を扱っている人へ焦点が合っているんじゃないだろうか?。この人はどんな観点からこの事に興味をもっているんだろう?この人が本当に求めていることは何?
その人の世界観からすると、こう見えているはず。こう感じているはず。こう聞こえているはず。なのに、この事柄について、なんだか違う結論へ進む。あれ?確認してみよ。

「なぜここでそう思うのですか?」

するとダイブする。「それは…」クライアントは深く、自分の内側のまだ答えが意識されていないところへアクセスする。そこにこそ、dance in the moment が発生する。好奇心が呼び水になって探究は進む。その人の内側から湧き上がってくるまだ言葉にならない何かからの気づき。そこは一人であってBGMのように「ここはどう」って時折ガイドが声をかけてくれるような世界。

パーソン・センタード・セラピー
キャンベル・パートン著 / 日笠 摩子訳
金剛出版 (2006.9)
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