SFとVIAの違い

自分がインタビューされる立場で参加して、 SFとVIAの違いを探求する試みを行った。

よく「SFはDoingで、VIAはBeing」って言い方になるけど、それでは説明がつかないってことがわかった。

それがよく現れていたのが、SFの「共感性」とVIAの「社会的知性」。
SFの「共感性」は、「共感」って言葉に引きずられて解釈されるけど、「一対一の関係性に於いて、相手の気持ちを受け止める力が強い」って言うのが意味してること。気持ちを察してくれるってニュアンス。
VIAの「社会的知性」は、「共感&戦略性」。俗に言えば、空気を読む力じゃないか?
そう置いて貰うと、納得。
良治にとって人間関係とは個別具体的。だから、VIAで親切心と愛情が高い。
でも、空気を読むのは苦手。しかも信条が「誠実さ」なので、ある意味、集団の空気を知ろうとするより、どこまで自分自身の気持ちに正直か?の方が大事。だから、よくフリーズする。
同時に、大学で社会学専攻だったように、知的には個人を越えた「社会」に興味がある。ここの人柄を超えて、構造が私たちに強いているものがあると思うのだ。

SFの「慎重さ」に長らく反発していた。いやいや必ずしも慎重じゃないよと。すぐにパッと冒険することもあるよと。
今回の指摘で、わかるまでは慎重だけど、「こうするのがいいんだ!」と学習すれば早いじゃないか?と言われて、そうか!と氷解。だとすると、自身の体感と合う。

最後に感じたのは、本人が強みをどう扱うか?の重要性。
VIAでは、やりすぎとやらなすぎという考え方を持っている。どれも全員が持ってる強みだけれど、それをどう使いこなしているか?は人それぞれと考える。
今回、「当時(20年近く前)を振り返って今ならどうしますか?」と質問をいただいた。
良治の在り様はそんなに変化していない。でも、どんな加減で、強みを活用したらいいか?については格段に向上した。情況に合わせ、弱味は諦め、強みで勝負する。
苦しいだけじゃなくて、苦しい中でもこの強みの使い方をマスターすれば、私ならきっと突発できると思うのは光明だ。

 

 

「コルトハーヘンの8つの問い」を巡る対話から

今回コルトハーヘンの8つの問いかけをグルグル回るという記述が、期せずして乾さんの8字理論と一緒で、再度説明いただきました。

8字理論。実に素晴らしい。

乾さんの視点は一貫して、「学習者にとってどんな学びが起きているのか?」です。
これまで「学習」と言うと、若者が社会化の過程で経験するものと同義だった。

しかし、これだけ長寿社会になると、大人の学びについてもっと考える必要がある。
大人は若者と違い、既に自身の経験から自分軸がある。だから、一旦経験からの学びをアンラーンし、越境学習によるカオスの中から、自分にとっての学びを掴み直す必要がある。そうでないなら、体験はしても、前後で学びは起きていない。

だから、8字理論にあるように、大人の学びには越境学習を起こすことが欠かせない。敢えてカオスに飛び込む学び。

で、乾さんが8字理論の説明の前に前置きとして置かれた、学校教育、企業内教育。どちらも「『既にある知識をいかに上手に内に取り込むか?』という種類の学びである」という点では共通している。

一方、WSDやショーン「行為の中の実践」的教育、師匠から学ぶ弟子がやってる学びは、そうじゃない。
常に自分の内なる軸にとって、「これはどういう意味があるのか?」他者の学びようから、我が身の学びを掴み直している。
ここを説明しているのが8字理論になる。

そして、今回コルトハーヘンの8つの問いかけを考える小節と8字理論を巡り対話する中で、いくつか大切なキーワードが出ました。

間。ニーズ。遊び。楽しさ。今ここ。やりながら修正する。事実・感情・意思・ニーズは切り分けて把握するのが難しい。

こうして8字理論で、学習者にとっての全体像。コルトハーヘンの8つの問いかけから、ミクロでの振り返りのポイントを合わせて考えると、この2つな理論からこぼれ落ちていることがあることがわかった。

まず「振り返り」って、簡単じゃない。そこにはコルトハーヘンの8つの問いかけが示すように、4つの段階、行為・感情・思考・ニーズがあり、私軸と相手軸がある。
ここはNVCでも、観察・共感・ニーズ・要求の4つのレベルがあるのと呼応している。
で、学びを起こすには、これをキチンと把握できることが不可欠だ。

これがどれもとても難しい。だけれど、訓練により上達することが出来る。

そこでキーになるのが、多様性。多様性のカオスに、問いを持ちながら、すぐに答えを出さずに留まると、何か見えてくるものがある。だから、多様性で拡散した後、私にとってはどうか?を定着させる「間」が欠かせない。多様性を確保するには、遊び感覚、「もし○○だったとしたら~」が欠かせない。自由さがあるから、よりよさを見付けることが出来る。

そして、今ここ、この場で起きていることを、お互いに探り会う、臨場感が大切だ。ライブであること。ここが若者の社会化する学びと違う所だ。
他者の学びを観て、自分の学びとする。
「行為の中の実践」の時、人はいつだってうまくやろうとしてる。同時に迷ってもいる。「これでよいのだろうか?」と。集中力を高め、やりながら軌道修正する。

ここまでをやって、初めて「学び」=内省が起きる。

 

 

 

 

講演会 夏目房之介教授・最終講義「マンガ研究はなぜ面白いのか」を視聴して

YouTubeLiveで夏目房之助先生の最終講義を視聴した。

なんと670人近い人が視聴していた。

どうして漫画ってこんなに面白いのだろう?って個人でああでもないこうでもないって考えて、同じような興味関心を持つ人たちが集まってワイワイやってきた。そんな情景が浮かんで来た。そういう光の面もあれば、アカデミックに取り込まれたことによる、精緻化が進み、野蛮さ、荒々しさが喪われたという嘆きの面もある。

視点を変えると、大きな流れが見えてくる。
日本では、戦後、貸本と週刊誌漫画という二つの流れがあり、途中、コミケという、巨大同人誌のイベントが発生。インターネットの進捗と共に、週刊誌漫画が衰退するという流れの中にある。

しかも一部の超売れっ子漫画家には、メディアミックスでキャラクターの消費による利権がもたらされるようになった。それが逆に、多くの漫画家は貧しいという痩せ細りを生み出してもいる。

良治は興味関心が社会的な方に片寄ってるので、戦後の出版業界の興隆と衰退と軌を一にしているマンガの置かれように興味がある。最適化を進めた結果、持続可能な仕組み作りに失敗。かつ、インターネットに合わせた仕組みを作り出せず、苦しんでるっていう流れがあると感じた。

漫画と映画の関係。写真とも連動している。
身体論へ。

 

マンガの面白さの探究は、出版業界の衰退と共に始まった感じがした。

 

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第一部[講義]「現代マンガ学講義」の現在いま
第二部[鼎談]夏目房之介×中条省平×佐々木果(司会:三輪健太朗)

心理的安全性とリーダーシップ

村瀬俊朗さんの解説を読みながら、後半、リーダーシップについて書かれていて、面食らった。なぜ心理的安全性の話が、リーダーシップに繋がるのだろう?


前回、「信用」と「心理的安全性」の対比は、個人と集団で同じ現象が違って起きるという例。
心理的安全性」とは、社会学が探求すべき独自領域の、個人には還元できない、集団時に発生する何か?の一つである と言う話を書いた。

村瀬俊朗さんの解説を読み込むと、リーダーシップもまた従来の方法がよくなかったことが分かる。

人々は、リーダーがいると集団の生産性が上がることを自覚していた。
で、最初に目についた原因は、リーダーだった。ある特性をリーダーが備えているから、あの集団はすごいと考えた。
ところが、リーダーの特性を特定し、「○○があるとリーダーになる」と因果関係が成り立てばめでたしめでたしだった。しかし、全然特定出来なかった。
いろんなリーダーがいたのだ。

そこで次に、「リーダーとフォロワーの関係ではないか?」と推測した。集団がどういう状態の時にどんなリーダーが求められるのか?
こうなると、リーダーの必然性よりも、集団のニーズにリーダーはどう応えるか?で、リーダーのよしあしが決まると推測した。
ところがこれもうまくよきリーダーをうまく言い当てたとは言いがたかった。

平塚 知真子 「Google式10Xリモート仕事術 あなたはまだホントのGoogleを知らない」ダイヤモンド社 2020.11.
https://honto.jp/netstore/pd-book_30678207.html

によると、googleは2002年に実験として、フラットな組織を作って、生産性を検証した。結果、大失敗。マネージャーがいないと生産性が下がった。
そこで、2009年にプロジェクト・オキシジェン(酸素計画)を発動。今度はどんなマネージャーがいると、チームの生産性が上がるか?検証し直した。


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Google式「優れたマネジャーの条件」

Google マネージャーの行動規範
1.良いコーチである。

2.チームに任せ、細かく管理しない。

3.チームの仕事面の成果だけでなく健康を含めた充足に配慮しインクルーシブ(包括的)なチーム環境を作る

4.生産性が高く、結果を重視する。

5.効果的なコミュニケーションをする-人の話をよく聞き、情報を共有する。

6.キャリア開発をサポートし、パフォーマンスについて話し合う。

7.明確なビジョンや戦略を持ち、チームと共有する。

8.チームにアドバイスできる専門知識がある。

9.部門の枠を越えてコラボレーションを行う。

10.決断力がある
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村瀬俊朗さんも書かれているが、集団として「心理的安全性」を確保する作業はアートだ。こうすれば、メンバーが「心理的安全性」を確信するという正解はない。だけれども、誰かが、集団でそれに気を配らないと、できない。

私たち人類は、群れの好む性質を持った動物だ。

それを成り立たせるのは、どういう状態だったら、「心理的安全性」を確保されていると、メンバーが確信するか?がキーだったのだ。リーダーの個性でも、リーダーとフォローワーの関係性でもなかった。

「信用」と「心理的安全性」:社会学の根本;個人に還元できない何か?を私たちは持つのか?

 

 村瀬俊朗さんのエイミー・C・エドモンドソン「恐れのない組織 『心理的安全性』が学習・イノベーション・成長をもたらす」の解説を読んで、刺激を受けた。

『恐れのない組織』の「解説」を公開します。|英治出版オンライン @eijionline #note
https://eijionline.com/n/n6f2339131e64

 良治は大学で社会学を専攻した。その際、どうしても納得しきれなかった問いに、個人の意識の集合を「社会」と考える方法論と、嫌そもそも「社会」には個人に還元仕切れない何か?があり、それを解き明かすのが社会学だという考え方の対立があった。
 社会学の創世期で言うと、マックスウェバーは前者に近く、エミール・デュルケームは後者に近い。エミール・デュルケームが挙げた後者の概念はアノミーだ。有名な自殺論で、社会的な変動が大きい時、社会規範の揺らぎに影響されて、自殺が増えると主張した。
 直感として、後者だろうと思ったからこそ、社会学を専攻した訳だが、実際に卒論で取り組んだ方法は前者だった。どうしても後者のような社会に特有な何か?を考え出すことができず、アンケートを作成し、それを統計処理したというスタイルで書いた。

 そして、2005年頃学んだコーチングを通じて、そもそも人は、自分自身の願いもよく分かっていないということを痛感した。だから、振り返りを通じて、内省していくと、やっと何を求めているのか?に気づく可能性が高まる。
 逆に言えば、それぐらい、内なる泉に繋がるのは難しくて、どちらかと言えば、外側に同調しやすい。

 これは、少し前にベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」に、人類の特徴として、何もないものを信じてしまう力が上げられていた。
 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」によると、人類の特徴の一つに、群れを作る動物という側面がある。

そして、竹田 青嗣「中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)」で、サラリと書いてあるのだけど、すごく深いことが書いてある。
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人類がどこから発生したかといった問題とは違って、実証でだんだん確かめられていくような問題ではない。事実の問題としては、どこまでも、蓋然的な答えしか出ないということ、これが一つ。
つぎに、こういう「心」の問題は、科学的実証の問題とは「本質」が違っていること。つまり、むしろわれわれの心のうちの「了解と納得の問題」、「ああ、こうだったのか」という自己了解の問題だということです。
 

「確実なものと、確実でないものとの区別の根拠を、自分は自分の中にもっている」ということです。
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物理学の成功から、社会学はどうしても事実レベルの話で展開することへの憧れがある。
いい悪いとは別に、例えば、年収いくらいくらの人や、○○って属性を持っている人は、△△ってことを起こしやすい なんて統計処理で有意が出ると喜ぶ傾向にある。

大学生の当時、うまく表現できなかった違和感はここにあった。

 村瀬俊朗さんが感じた違和感は、多分これに近い。なぜ「信用」という個人に関わる属性の話を、「心理的安全性」という集団特有の何か?として、別な概念化する必要があるのか?

 竹田青嗣さんが言うように、私たちは、この場に「心理的安全性」を持っているか?いない?の根拠を持ち、振る舞っている。厄介なことに、それは通常の事実レベルとして計測できるものではなく、「どう人はそう確信するか?」の問題で、何を測るべきかが違うため、これまでうまく説明出来なかった。

 学習・イノベーション・成長をもたらす ためには、その集団が「心理的安全性」を個々のメンバーに確信させる必要がある。

 いくら個々人が内省をして、自分のニーズに気がついたとしても、「この集団は安全じゃない!」と確信すると、集団の罠に落ちて、多様性を活かすことができない。

 そこで、集団をコーチングする関係性コーチング(=ORSC)が必要となった。
どうして私たちは私たちになると、「心理的安全性」がないと確信してしまうのか?

逆にそれが明示化され共有化されれば、「じゃあ私たちは本当はどうしたいのだろう?」と、その確信を変更することが可能になる。

 つまり、群れて無いことをあると信じる傾向にある人類だからこそ、ハッキリと自覚さえできれば、「本当はどうしたいか?」に向けて、変化を起こす可能性も高まる。意図が現実化するのだ。

 

「ネズミの楽園」実験:TEDトーク

「あなたが依存症について知っていると思っていることは間違っている」のTEDトークを見て驚いた。

https://www.ted.com/talks/johann_hari_everything_you_think_you_know_about_addiction_is_wrong?fbclid=IwAR3oZlZYM8_xDgxUmQatChjOdZ7k6nUfdhL3Ot9RgROGgYdCtvwKX5R5Q2Q#t-336898

現在、イギリスやアメリカ、日本の法制度上では、「薬物依存は中毒性が高く、危険だ。従って、厳罰を持って禁止する」となっている。

依存症の治療を探すうちに、そもそも厳罰化の根拠になった20世紀初頭のネズミの実験に疑問を持った科学者を見つけた。
元々の実験とは、水入りのボトルと、麻薬入りのボトルをそれぞれ用意し、檻にネズミを閉じ込め観察した所、95%のネズミがやがて麻薬入りのボトルから飲むようになった。

しかし、医療で大きな外科手術で使用されている麻薬は、純度も高く、投与期間も長い。でも、手術後、麻薬中毒になったとは殆ど聞かない。
さらに、大規模な社会実験としてベトナム戦争がある。新兵に広く麻薬が用いられ、復帰後が心配されたが、95%が麻薬中毒にはなっていないと、厳密な追跡調査で判明した。

そこで、もしかすると「檻」がネズミを麻薬入りの水に誘導したのかも?と、疑問を持ち、改めて「ネズミの楽園」実験を行った。つまり、麻薬入りと入ってないボトルを置くまで一緒。ただ、孤独な檻ではなく、ネズミにとって楽園の環境でどうか?を観察した。エサいっぱい。仲間いっぱい。遊具いっぱい。広々したスペース。結果、麻薬入り水を摂取したネズミはゼロだった。

つまり、ネズミや人間はもともと群れていると幸せという本能がある。
繋がりがある環境下では、仲間以外の中毒性の高い物質より、繋がりを選ぶのが私たちなのだ。


結果、麻薬中毒患者を厳罰を課して社会との繋がりから切る行為は全く機能しない。逆に、繋がりを増やしさえすれば、人は自然と中毒行為を止める。人と繋がれないから、やむ無く、麻薬に中毒したのだ。

こう考えると、点が線になるようだ。

つまり、人と人との繋がりさえ私たちは取り戻せれば、幸せになれるし、大抵の事にも耐えることができる。

それは信じるレベルで無く、人としての本能レベルの出来事なのだ。

同じように、「ストレスが悪」という考えもおかしいことを、ケリー・マクゴニガルが教えてくれた。

ケリー・マクゴニガル「スタンフォードのストレスを力に変える教科書」大和書房  2015.10
https://honto.jp/netstore/pd-book_29886425.html

 

 

「自分の人生を創り出すレッスン」の出版記念イベント

8/26ロバート・フリッツ氏「自分の人生を創り出すレッスン」の出版記念イベントを視聴した。

ロバート・フリッツ氏の英語はシンプルで、所々理解できたし、Danna(田村洋一)の通訳も素晴らしかった。ロバート・フリッツ氏の在り方もよくて、明るく客観的に観るって姿勢にブレがなかったし、謙虚さが伝わって来た。

本を読んでると、細部に入り込んでしまって、どこがロバート・フリッツ氏の言いたい力点なのか?迷子になっていた。今回、質疑応答を通じて、「そういうことか?」と合点がいった。

一番読んでいてワクワクしたのは、ロバート・フリッツ氏の言う「マクロ構造」パターンをロバート・フリッツ氏が発見し、興奮している部分(p232)と、人々にその発見を伝え、なんとか不本意な構造を変えようと、介入するのだけど、失敗する部分(p234)。

構造を教育されたら変わるんじゃないか?パターンの順番を変えるように介入したら変わるんじゃないか?

でも、ことごとく失敗した。考察を深め、至った結論は驚くべきものだった。

ここでロバート・フリッツ氏は、絵を描くレッスンにヒントを得て、「観念なしで観る」、その難しさとの類似に気付く。
あぁ人は観念に引っ張られて、あるがままの現実からスタート出来ていない。だから、緊張構造が働かない。

そして、個人のアイデンティティと、創造物は関係ない。
さらに信念や価値観と、創造物は関係ない。逆に言えば、何かを想像する際に、信念や価値観を変える必要はない。

質問で、「自分の人生を創り出すレッスン」を送る上で必要とされる、3つの基本姿勢の「精神」に、「何も見つけようとしないで探求する」とあった(p48)。しかし、創り出す時には主体が必要ではないか?そこはどう考えるのですか?
この回答がふるっていた。陰陽図をDannaが書いてロバート・フリッツ氏の説明を補った。
始める時は当然主体が必要。だから陽。で、創り出すと想定外のハプニングが起きる。その時に現実を拒むのか?それも歓迎し、オープンで、そのハプニングも取り入れながら創造するのか?(後者が陰)となる。こだわらないと言ったのは陰のこと。


同じく3つの基本姿勢の「姿勢」の原語が、「オリエンテーション」と知って
驚いた。でも、説明を聞いていると、ここが実践時の分かれ目であると理解できた。

で、良治はここが違う。
友だちのNちゃんの息子さんにDくんがいる。Facebookにあげられる彼が繰り出すいろんなことは、常に彼が創り出す創造物で溢れている。彼にはそうせずにはいられない内なる声が宿っているようだ。
たぶんロバート・フリッツ氏も、自然と何か?を創り出さずにもいられない人だ。それは文章の端々に、それが普通、初期値として出てる。「次は何を創り出そう?」あれもこれも創り出したいことで充ちている。
良治にはその感覚が乏しい。

人がどう思ってるか?人にどう思われているか?そこに関心があり、周囲への警戒に全力を費やしていた。

結果ロバート・フリッツ氏が達した結論は、勝手に師匠と思ってるフォーカシングのアン・ワイザー・コーネルの結論と一緒だ。〃The Radical Acceptance Of Everything〃(すべてあるがままに)
インプロの「解決社長」と一緒。どんな突発トラブルが起きても、今の起きていること全てを肯定してみる。
何かを創造するとは、今ここからスタートすることだ。価値観から言って、現状がマイナスだとしても。

ロバート・フリッツ氏によると、ビジョンを描くのは、それほど難易度は高くない。難しいのは、現実をありのままに観ること。

そして、現実をありのままに観ることは、絵を描くトレーニングと一緒で、トレーニングすれば上達する。


ロバート・フリッツ「Your Life as Art 自分の人生を創り出すレッスン」Evolving 2020.7.
https://honto.jp/netstore/pd-book_30395158.html

アン・ワイザー・コーネル「すべてあるがままに フォーカシング・ライフを生きる」コスモス・ライブラリー 2007.8.
https://honto.jp/netstore/pd-book_02917484.html