[CleanLanguage]脳と抽象と比喩と

社会構成主義を一言で言うと「Words create worlds」らしい。

クリーンランゲージで概念を比喩に置き換える作業をやっていて、動物と人間の違いは、言語や記号により抽象を扱えるようになったことだろうけど、人間には動物として超えられない壁があるんじゃないかと感じる。それは処理できる情報量。私たち人間は比喩の形で抽象を置き換えしないと理解出来ない。抽象概念や数学からすると比喩は粗雑過ぎる。だけど、言語をデコードするときには、個々の体験流に参照しないと、「わかった」にならない。それは、その人にとって処理しやすい五感を使って、比喩で「わかる」。

つまり、社会構成主義的に言えば、言葉によって想起される比喩がその人の体験流を呼び出し、その人にとっての「世界」を構成する。

これが主観が当てにならないとされる根拠なんだろう。

クリーンランゲージを学ぶ中、簡単なワークとして、視覚や聴覚をクリーンランゲージで紐解いた。個々の人の体験流の違いが明確になった。
 Ryoji☆の場合、何が正しいか?必ず体感覚に確認するパターンを持っている。過去のイメージを引っ張り出す人もいれば、視覚イメージが展開していく人もいる。
 それは、Dannaが近頃詳しく解説してくれたエニアグラムのタイプと連動しているように感じる。ラベリングとしてのその人ではなく、その人がどういう風に外界情報を処理するかというメンタルモデルであるように感じる。違うお題でワークしても、個々の人の体験流の処理の仕方は変わらない。面白いほど型がある。

だから、クリーンランゲージは恐ろしく切れるナイフのようだ。否が応でも、どんな風に体験しているか?引ん剥いてしまう。最短距離で、有無を言わさず。

科学的な言いようは、抽象こそが真の世界だ!という言い回しだった。
数学の歴史を読んで、つまみ食いで理解した範囲で言うと、数学者と言えどもこの世界を比喩で体験していることから逃れることができず、純抽象で導き出された答えに、そんな訳があるか!と反対意見を述べている。なかなか実感から逃れることができなかった。そして、おそるべきことに、こうした理解を超えた抽象の世界を、比喩から抜け出して、繋いでいくと、どうも融合するらしい。あるパラメーターがこうなった時に出現する体系がこの世界で、パラメーターを変化させると、こっちの体系になるってことらしい。。

現代確率論は、われわれの無知を「面積を考えられない図形」があるという、ルベーグ積分論の恐ろしげな事実を使って、厳密数学として表現したわけだ。
深谷賢治「大人のための最先端理科 第74回 数学確率論」週刊ダイヤモンド 2016/07/2

全然理解できないけど、五感の理解を超えている世界があるらしい。

この再現性を可能にした抽象の世界を私たちの世界へ応用することで、自然の力を私たちのために利用することが可能になった。

だから、学校教育において、主観を超えた抽象で記述する訓練を私たちは受ける。
それは、行政やビジネスの場でも、圧倒的に抽象語と数字の使用を要求する形で、欠かせないものになった。

しかし、私たち自身はまったく抽象の世界へ付いていけてない。私たちがお互いを理解しあうためには、比喩がどんな体験流を呼び出すのか?シェアしあい、世お互いがどんな主観で生きているのかを知ることが欠かせないだろう。(ここは可能性も秘めていて、チームビルディングに役立つ。)