6/6白熱教室:対話型講義を体験して

6/6六本木ヒルズで開催中の「未来を変えるデザイン展」のセミナー企画、白熱教室:対話型講義by小林正弥さんに参加した。

サンデル教授のハーバード白熱教室はとても面白い。テレビを見て、本を読んでだけじゃぁ満足出来なくて、実際に体験してみたかった。


今回のテーマは「アベノミクスと正義」だった。

これも「おや〜」と感じた点。告知にはテーマが無かった。話したい人が集まるためには事前の告知が欠かせないはず。
従って場のデザインとしては、人によりこのテーマの知識が異なり、関心が異なり、ただ白熱教室に興味があるというのが共通点だった。

Co-Activeという考え方を知った今では、講義はやはり講義なんだなぁと感じた。というのは、小林さんと会場にいた30名とのやり取りはあっても、会場にいる人たち同士の話は無かった。ファシリテーションとしては有り得ない状態だった。これが第2のおや〜。これはメリットとデメリットを含んでる。Co-Active好きなRyoji☆としては、横の繋がりを作らないのは勿体ないと思う。

であれば、僭越ながらRyoji☆でも十分ファシリテーション出来ると思った。

小林さんに感心したのは、発言に対する返答が非常に上手であること。これを繰り返すだけで、だいぶ発言しやすくなった。

更によくするとしたら、是非ファシリテーションの技能の一つ、板書を使って、今語り合ってるテーマを書き出し直して欲しかった。

最初にパワーポイントで用意された問いかけが映しだされた。それをめぐってやり取りを通じて、今この場から生まれた新しい問いかけが生まれたのだが、いろいろ発言を聞いていると何を考えたらいいのか?つかみ直すのが難しかった。

あと素朴さに感動するRyoji☆がいた。あまり金融知識がなく、意見を聞いて揺れる自分をそのまま語るって若者に好感を抱いた。

意見を出しながら、次第に、各自が考える目的に叶っているかどうか?のコメントが増えた。ある善と考える目的に、株式市場は沿っているのか?

発言からの連想さは、共感を呼びやすい。そうした「いいね」が続くと、じゃあ私も言いたいって感じに動いた。

意見が変化していくのを聞くのも興味深い。よりよさをこうした意見の出し合いの中から知るってことなんだろう。


あとこれは自戒を込めて。対話型講義には危険性ないのかも知れないが、こうした対話がよい場合と会話でよい場合がある。「今は対話なんだ」って合意がとれてることが大事。今回提示されたルールは3つ。一つの正解があるものではない。手を挙げて発言する初速を速く。意見が変わっていくことを歓迎するし、発言の時にどう考え方が変わったか?織り込んでくれると尚よい。
関係性を作ってから入るってステップは無意識かも知れないけれど、自覚した方がよい。スクールカーストって言葉が出てきたように、方法が普遍なんじゃなくて、関係性が先行してあり、そこにマッチするか?
小中学校や職場のように人の流動性が低い所では、発言は固有化を指し示す。考え方を明らかにすることは、ある種危険性を孕んでいる。対話はその起源からして、多言語多民族多宗教多人種の中から、必要性を持って生まれてきた。何が正しいか?価値観が対立して先に進めない。そんな中でもお互いに納得できるより普遍的な何かはありうるか?今の日本に求められるとしたら、日本人もお互いの多様性を認め、創発することを今欲求しているってことなんだ。

情報リテラシーと、裏をとる

震災当時の報道を検証する本が出始めた。まだ2冊しか読んでいない。
こんなにもあからさまに、事実と報道が異なっているのが露わになったことは、Ryoji☆にはある種、衝撃だった。(Dんなに言わせれば、そもそもそんな信頼をマスメディアに与えてる方がおかしい。)少し前から、新聞・テレビの報道がおかしいとは聞いていたけど、あの震災直後のテレビニュースは異常だった。まるで戦時下の大本営発表に戻ったみたい。「パニックを起こすな」「原発は安全対策がいくつもあるから、騒ぐのは待て」
結局、次第にわかったのは、専門家だってわかってなかったということ。
ここはややこしいのだけど、専門家、科学的であるとは保守的であるということ。予断を排す方向で論じようとすると、あの原発事故は情報が少なかったし、一般の人が一番知りたい社会的に許容されるべき危険度とは何か?を語るのが難しかった。
喩えるなら、交通事故は危険だから車の存在そのものが危険だという意見と近いと言うと伝わるだろうか?原発そのものを巡る議論と、仮に原発の活動を許容した場合、一体どれくらいの危険度を私たちの社会は許容するか?という話。さらに、緊急時の話と、通年化した場合の話もまた分けて語る必要がある。

だけど、私たちが当時知りたかったのは、私たちが行動できることは何か?という具体的なことだった。専門家は現象は説明してくれても、じゃあ社会的にどうするのがよいか?までは「語れない」領域。逆に素人の私たちが語れるのは、社会的にどの辺りを許容するか?ってことだった。
私たちに混乱を引き起こしたのは、専門家の中でも意見の相違があり、安全という意見とすぐに避難という意見が交錯した。どこかの誰かの意見に従っていればよいのではなく、どれが正解か分からない中、私たちにとって納得のいく判断は何か?を作り出さないといけなかった。専門家の方も自身の良心に従って意見し行動したと思うが、専門である現象説明と、社会的に受け入れられるであろう基準を語る時、帽子をかけ直し、自覚して語りを分けて欲しかった。(自ら考えようとせず、誰かに判断責任を投げた私たちにも責任はある。)

その点、SNSツイッターの働きは目覚ましかった。当時ほとほと感心したのは、「情報が不十分な中でも、これだけは言える」という意見に出会ったこと。パニックを起こしそうな身には、「危険はない」を連呼されるよりも、「これだけの分かっていない最悪の危険がある」とハッキリ言い切ってもらった方が安心できた。そうやって整理して貰うと、どの情報はキーで、どんな情報が来たら行動を起こさないとまずいのか?情報の価値判断ができた。


そして、SNSツイッターの働きの悪い面も明らかになった。流言飛語だ。パニックってる最中に、「〜しないと!」って言われると、思わず動き出してしまう。
このことは、情報の裏を取るというジャーナリストならやらないといけなかったことを、素人の私たちもやらないと踊らされることを示している。言葉には力がある。けれど現実と繋がりのない言葉は妄想だ。

関係性を語りあう効用:ORSC

ORSCを体験した人からの「ORSCいいよ〜」話を聞くと、天の邪鬼なRyoji☆は「本当かなぁ〜」と思ってしまう。

関係性って当たり前だったり、自然と考えるかも知れないけど、実はデザイン出来るというのは、それ程驚くことじゃない。
未だに社会契約論が論として価値を持つのは、伝統と思っていることの根拠は、その歴史の古さに依拠するのではなく、多くの人の合意がそれに力を与え、正統性を付与しているのだ!という発見だった。つまり、フランス革命が人類史に意味を持つとしたら、そうした理性への信頼を元に、社会の在りようをデザインし直そうとした所にある。従来の「伝統だから」「慣習だから」を超えて、「理性」で合理的に関係性をデザインしようとした。
つまり、改めて関係性を理性に乗せてより良き在りようを探るというのは、広く認められた知恵なのだ。
関係性を外部化して、客観として扱えるようにしてやれば、自ずとどうしたらよいか?見えるものだ。だから「ORSC自体がよい」ってよりも、「関係性を話す環境を整える状況設定がよい」のではないだろうか?
そう考えると、「何故ORSCでDPAが重視されているか?」理解出来るのではないだろうか?ORSCが機能する条件は、最初に何のためにこれをやるのか?で、納得出来るか?どうか?にかかっている。ORSC自体は素晴らしい道具を持っているけれど、型にハマるかどうかは最初の場の設定にかかってる。


ORSC体験の声として、「こうした関係性について親しい間柄だったけど話したこと無かった」がある。これはそうだなぁ〜って思う。私たちは自然発生する関係性に任せきっていて、関係性をお互いにとってより良いようにデザインするってことをしない。だから関係性について語らない。一旦、関係性を語るという、見えない関係性を外部化することを始めると、自然と明確になっていく関係性と自分の意図の往還が起き、本当は現れたがっていた関係性が浮上する。
何故関係性を改めて語り合うことが難しいのか?
他者介在がないと、関係性について話しているのか?個人の意見を話しているのか?区別がしにくい。そこを「話しているのは関係性なんだ」と保証する第三者が必要とされる。関係性をよりよくするために、他者介在が必要なのだ。

文化人類学を学ぶと、ちゃんと人類は関係性を語ることの大事さを知っていたことを知る。アメリカのネイティブ・アメリカンの伝統には、部族がみんなで語り合うことがあった。(恐らくRyoji☆が知らないだけで、日本でもそうした伝統があった筈だ。)トーキング・スティックという知恵もそこから生まれた。そこには長老がいて、皆の話に耳を傾けるのを保証していたし、シャーマンが部族の神の声を伝えてくれた。プロセスワークに触れると、こうしたシャーマンとはより場のエッセンスに触れ、場にいるメンバーが感じている何かを言語なり身体表現なりで伝えてくれる存在なんじゃないか?と感じる。言わば場で起きている何かから直感的知をもたらしてくれたのではないだろうか?だとすると、シャーマンは神様との交信、お告げというよりも、場の自覚を上げ、より意図に叶った意志決定を助ける存在だったんじゃないだろうか?プロセスワーク風に言うならば、プロセスマインドとの往還をよりよくしてくれる人なんじゃないだろうか?


コーチングを学んでいてORSCerになろうとする人がやりそうになることに、ORSCerが感じた直感や質問を投げたくなり、ムズムズする。これはORSCの境地からすると、ORSCerが感じるのはよいが、それをクライアントさんたちにやってはダメだ。ORSCerが行うべきは、関係性=システム=場がどうかへクライアントさんたちへ投げかけることだ。きっと沈黙が返ってくる。関係性を考えたことがない人たちが関係性を考えると、考えるための時間が必要になるし、こんな感じを言い当てるのも難しい。だから、「きっと見つけられますよ」って心持ちでいることがORSCerには求められる。

多分エルダー=長老は長く生きて来たことを通じ、かつ、自身の体力がないということもあり、信じて見守るというポジションを組織の中で、意図せず取ったんじゃないだろうか?結果、その第三者性が場にプラスの要素を持ち込んだのではないだろうか?

ORSCとは、組織の持つポテンシャルの発揮を目指すので、ORSCerは最初から「この組織はもっとよくなる」という予断満載で臨むぐらいでちょうどいい。逆に言えば、それだけ組織への楽観を持つのが難しい時代ってことだろうな〜。

TEDという衝撃

コーチ仲間のYたかから「TEDいいよ〜」とは聞いていて、興味は持っていたが、自分からアクセスして動画を視聴しようまで行かなかった。今回NHKの2チャンネルで紹介番組があり見て、成る程と思った。

実にアメリカ的だと感じた。アメリカって国に希望を感じるのは、こうした大義に人が動かされるシーンだ。

12分間のプレゼンテーションで世界を変える。

んな馬鹿なと思う。しかもプレゼンテーターへの報酬はゼロ。でも、有名人が競って出演を希望する。それは日本円で40万円近い参加費を払う聴衆が力を持った人たちだから。年1回開催でプレゼンテターには5,000人近い応募がある。うち実際にプレゼンするのは70名程度。境界線上にある何かをその人の在りようを通じて聴衆に訴える。高額の参加費を払って参加する聴衆は、今この世界の「面白い!」に向けて行動しているプレゼンテターの世界に触れたがっている。

インフォメーション・アーキテクチャ。創設者のワーグマンさんは1980年代半ばに、これからは如何に情報をくっつけ、新しい価値を生み出すか?だとして、テクノロジーT、エンターテイメントE、デザインDを理念としたTEDを創設した。インターネットの普及は情報爆発を生んだ。逆に今は真に役立つ情報を選別したどり着くスキル知識が欠かせなくなった。独自の情報ソースで他者を出し抜くというのが難しい。情報はコピーされ、増殖する。情報があっても真に役立つ情報にたどり着くのが難しい。逆に、どうしたらより有益な情報を生み出せるか?も可能となった。組み合わせ次第では、従来考えられなかったことが可能となる。まさにTEDの試みは、35年以上前に、今出現しているネットの変化を予言した動きだった。

そして世界を動かすプレゼンとは、結局人にたどり着く。こんな世界に私はしたい!あなたもそれに参加しませんか?というお誘い。
個人の利益を超えて、私たちの利益を情熱を持って伝えると、その思いに真っ直ぐ応えてくれる。そのポンポンという、共振さが熱気を呼ぶ。プロセスワーク風にいうならば、エッセンス深く、プロセスマインドに達すると、「そうだ!それは私たちが大事にしたいことだ!」と参加したくなる。頭レベルの納得じゃないので、真に人を動かす。


アメリカ的だと思うのは、幾つものシーンでこれと同じパターンを見たから。アメリカってしょうもないって思うことも多いけど、このスピリットだけは尊敬する。そして、日本ではこれが起きにくい。何故プロセスマインドが現れるのを阻むのか?日本人に共振を起こさにくいのは何か?
山岸俊男さんの研究からすると、信頼の期待値の違いなのかも知れない。他者を信頼しないから、人間関係の閉鎖性で安心を得る日本人の癖。
日本でもこうしたTEDのような動きが進むといいなぁ〜。

自分に出来ること出来ないこと

マイコーチとのセッションで、やたらと「出来ない」「ダメだ」を連発するRyoji☆に気付いた。それは嘘じゃない。確かにそうなんだ。そういう実感がある。しかし、それはコインの片面でしかない。そうであっても出来ること、ある。

「組織開発」の考えに触れてビックリしたのは、組織改革とはどの立場であろうが可能であるということ。「トップが変わらないと変わらない」はある意味正しいけど、じゃあトップだけよければよくなるか?と言えばそうじゃない。塩野七生さんの「ローマ人の物語」に、興隆する時代と崩壊する時代。その違いの述懐として、どんな時代でも素晴らしい人材はいる。興隆時にはそんな人材に次々活躍の場を与える。崩壊時はせっかくの人材の活躍の場を奪うもしくは活かさない。とあり、深いなぁ〜と感じた。リーダーは一人でリーダーなんじゃなくて、フォローアーがいてこそのリーダー。リーダーが目立つけど、実はその人に託する周りの力って大きい。

だから組織の中でそういう状況だとしても、出来ることはあるし、その出来ることをどうするか?工夫出来る。出来ない中にいる限り、何もしないRyoji☆を肯定することになる。自分の人生に責任を持つって、「えぇなんで私なの〜」とマイナス過剰ポテンシャルで盛り上がることじゃなくて、兎に角責任あると、勝手に踏み出して考えるとこから始まる。
この差は微妙なんだけど決定的だ。そうする責任がある。そうするために私は何が出来るのか?から発想する。するとやれる余地は見つかるものだ。

コーチングに携わっていると、人が望むものは普遍だなぁと感じる。(ただし、どうやってそこへたどり着きたいか?の価値観は千差万別なので、現れとしてはみんな違う。)Ryoji☆の場合もご多分に漏れず、毎回決まったRyoji☆の理想に到達する。つまり、どんな状況であろうが、Ryoji☆はRyoji☆らしくあることを選び続ける。だとしたら、「出来ない」「私には権限がない」じゃなく、そんな中でもRyoji☆らしくやれることは何か?そしてそれを如何にRyoji☆らしくやるか?なのだろうな〜。そのためには、Why?に応えるRyoji☆自身の想いを明確にしておくことだろう。

エルダーシップへの道

1/22Kおちゃんとインクルーシヴセラピー読書会を行った。

Kおちゃんが直感として、色々な人が色々なことを言ってるけど、人としての高みの境地、仮にそれをエルダーシップとするならば、どの流儀であろうが、同じ地点を目指している気がすると繰り返し語った。

ブッダ、プロセスワーク、ハコミ・セラピー、フォーカシング、セドナ・メソッド、サーヴァント・リーダーシップ、ORSC…、そしてインクルーシヴセラピーも。
お互いの学んで来た知識と体験から繰り出すと、確かにKおちゃんの直感は的を射ているように感じられる。

敢えて単純化して語るなら、それは2つの世界への見方のうち、ある一方の大事さを述べいる。
一つは、白黒、言語上の論理に乗り、過剰ポテンシャルをかけまくって、世界とは「こうでしか有り得ない」と考え、行動する世界への見方。
もう一つは、あるがままに内に起きる気持ちを押さえる。かつ、まだ知らない未知なる可能性に開き、理解は出来ないけれど、得体のしれないそれに従って、内に何が起きるか?確かめていく世界への見方。

Kおちゃん説に乗っとるならば、後者への道をどうやって達するか?の違いに響く。そこに至るやり方は、各流儀のようにたくさんある。何故そう考えるか?の説明、理論もいっぱいある。しかし、結局の所、たどり着こうとしといる彼岸は同じように感じられる。だから、自分が好きなやり方でたどり着けばよい。

Kおちゃん曰わく、昔の賢人と呼ばれる人が懸命に修行してたどり着いたその境地に、現代の私たち、Kお&Ryoji☆は、より短い時間でたどり着いてる。ということは、今時代はそちらへと流れようとしているのではないか?


このインクルーシヴセラピーにしても、サーヴァントリーダーシップにしても、本当によき会、味わい深いなぁと感じると、「あれは一体何をやり取りしたんだっけ?」と記憶に残らない。それは言語明瞭で説明可能な領域を超え、無意識(もしくは身体性)への働きかけなのだ。それは頭で理を尽くして語るマインドではなく、まだ言語で捉える前の、だけど存在から溢れる何か?だから、マインドだけで理解しようとすると理解出来ない。言葉にならない。言葉にした途端、矛盾する。しかし、諦めて、あるがままを受け入れ、わかんないけど起きる何かにフォローするとした途端、事態は流れ出す。「あぁなんだ!過剰ポテンシャルを手放せばよかったんだ」と。逆に言えば、それだけ自我に私たちは執着している。そうでなければ、生が保てないと思い込んでる。しかし、無意識(身体性)は遥かに賢い。一体どうしたらよいか?よく知っている。

このほんの少しの世界観の違いが、結果として生きやすさ生きづらさの違いを生む。しかし、知って訓練を積めば誰でも、その平安さに達するはずだ。
そしてキーになるのが、一人では難しい。他者との関わりの必要性。昔の人に比べ、ある程度の境地にRyoji☆が達することが出来たのは、より効果的に他者に関わって貰えたからだ。フォーカシングの創始者のユージン・ジェドリンさんも「一人でやるフォーカシングはフォーカシングじゃない!」とまで言っている。より孤独になるためには、他者の介在が必要なんて、たいした逆説だ。

菩薩道とは、自利と他利の一致にある

原始(根本)仏教たる阿含経典を読んで、考えてる。
仏教の歴史を概観すると、確かにブッダは驚異の人だと感じる。今読んでもブッダに説得されてしまう。「二の矢を受けずの教え」は、コーチングを学ぶ中で、「どれだけ自己の感情をキチンと掴めるか?」、感情モニタリング、EQの基礎の大切さを別の形でわかりやすく説いた教えだ。それを概念として理解したことと、実際にそれが出来ることの差を思い知った。理解したけど出来ないのだ。だから、修行が必要になる。先達者たるブッダの導きにより、それをマスターすれば阿羅漢に達する必然性は、ブッダの時代も現代も全く同じ。石飛道子さんによると、ブッダの語りに説得されてしまうのは、この世界を成り立たせている「生じ滅する」無常のことわりに基づいた論理に乗っ取って、法を説かれるから。穏やかな語り口の裏にビターで厳しい論理が控えている。だから、説得される。有無を言わさない論理の厳しさを感じさせず、倫理として響かせるのがブッダのすごい所だ。確かにこの世界を映しとった「一切」を語り切るので、頷かざろう得ない。

そして、初転法輪ブッダがためらったのは無理もない。ブッダの説く境地は、解釈者によっては、虚無主義に取られかねない。そうじゃない境地がありえることを理解して貰うのは難しい。何故なら、言葉そのものが「ある」を前提にしないと語れないように思える。実際には無我なる言葉には、「ある」「ない」も等価であり、かつ、「ありでも、なしでもない」状態もありうる。この3つは論理的には全く等価なんだけど、自我に縛られた私たちには「ありでも、なしでもない」状態を受け入れるのが難しい。(ベン図を書いてみると、何を言っているか?わかる。極めて論理的なのだ。)言葉を発した途端、それはあり、あれば反対等価である「ない」を呼び覚ます。しかし、それは言葉の性質であって、現実には「ありでも、なしでもない」状態もありえる。ブッダに論争を挑む人たちは一様にそんなブッダに疑問をぶつける。あるがままを映しとるブッダの法は、その微妙さを伝える。ブッダに見事に説得されてしまう。

そして、自らの発見をブッダはそのままにすることも出来た。自利を選ぶことも出来た。「悟り」という人生ゲームにおいて、揺るぎない答えを得た。それを他者も知れば同じ境地に至たると考えたのは他利だ。

ブッダは自分自身の内を考察するこてで、壊法を発見した。ブッダではない弟子たちには、「何故そうなのか?」分析による探求が進んだ。同時期に起きた、ギリシアプラトンの哲学。中国の儒教に比べ、インドは宇宙論の精緻さがある。数秘術の影響もあり、ブッダの教えをしっかりと分類整理することが起きた。結果、他利よりも教義研究学問に重きがおかれた。で、在家信者から他利を強調するカウンターが起きた。自利行と他利行が一致する人こそ尊いと。それが般若経典。で、それを論理的に支える形になったのが、八宗の祖、竜樹。ここに至り、直感は論理という形を与えられ、それ自身の運動を始め、華厳や法華経の展開へと開いて行った。


コーチングを知って自己実現を達成する法について書かれた本を沢山読むようになった。結果として、どの本を読もうが、「成功するには他利行しかない」ことが謳われている。サービスを提供するからひいきにされ、また利用して貰える。他利が大きい程、自利の利益もまたある。ブッダが見抜いた通り、生じ滅する流れのままに、「何が皆が望む生じなのか?」を掴んだ者に、富や福はやってくる。

だから、真に洞察し動いてる人は皆、本人の自覚とは別に、他利行を行う菩薩なのだと言えるだろう。事業が存続可能なのは、他利行を行っている時だけなのだ。

経験学習におけるコツは、「楽しみ」だ。どんなに単調で興味を持ち続けられない作業も、視点の持ちようにより、「楽しみ」を見いだせる。強引に言い換えるならば、これだって、他利行だけだったことを、「楽しみ」という自利行に一致させ、菩薩道にしたと言えるかも知れない。

この他利行と自利行の一致、菩薩道とは人の存在にとってなかなか興味深い問いを孕んでいる気がする。