情報リテラシーと、裏をとる

震災当時の報道を検証する本が出始めた。まだ2冊しか読んでいない。
こんなにもあからさまに、事実と報道が異なっているのが露わになったことは、Ryoji☆にはある種、衝撃だった。(Dんなに言わせれば、そもそもそんな信頼をマスメディアに与えてる方がおかしい。)少し前から、新聞・テレビの報道がおかしいとは聞いていたけど、あの震災直後のテレビニュースは異常だった。まるで戦時下の大本営発表に戻ったみたい。「パニックを起こすな」「原発は安全対策がいくつもあるから、騒ぐのは待て」
結局、次第にわかったのは、専門家だってわかってなかったということ。
ここはややこしいのだけど、専門家、科学的であるとは保守的であるということ。予断を排す方向で論じようとすると、あの原発事故は情報が少なかったし、一般の人が一番知りたい社会的に許容されるべき危険度とは何か?を語るのが難しかった。
喩えるなら、交通事故は危険だから車の存在そのものが危険だという意見と近いと言うと伝わるだろうか?原発そのものを巡る議論と、仮に原発の活動を許容した場合、一体どれくらいの危険度を私たちの社会は許容するか?という話。さらに、緊急時の話と、通年化した場合の話もまた分けて語る必要がある。

だけど、私たちが当時知りたかったのは、私たちが行動できることは何か?という具体的なことだった。専門家は現象は説明してくれても、じゃあ社会的にどうするのがよいか?までは「語れない」領域。逆に素人の私たちが語れるのは、社会的にどの辺りを許容するか?ってことだった。
私たちに混乱を引き起こしたのは、専門家の中でも意見の相違があり、安全という意見とすぐに避難という意見が交錯した。どこかの誰かの意見に従っていればよいのではなく、どれが正解か分からない中、私たちにとって納得のいく判断は何か?を作り出さないといけなかった。専門家の方も自身の良心に従って意見し行動したと思うが、専門である現象説明と、社会的に受け入れられるであろう基準を語る時、帽子をかけ直し、自覚して語りを分けて欲しかった。(自ら考えようとせず、誰かに判断責任を投げた私たちにも責任はある。)

その点、SNSツイッターの働きは目覚ましかった。当時ほとほと感心したのは、「情報が不十分な中でも、これだけは言える」という意見に出会ったこと。パニックを起こしそうな身には、「危険はない」を連呼されるよりも、「これだけの分かっていない最悪の危険がある」とハッキリ言い切ってもらった方が安心できた。そうやって整理して貰うと、どの情報はキーで、どんな情報が来たら行動を起こさないとまずいのか?情報の価値判断ができた。


そして、SNSツイッターの働きの悪い面も明らかになった。流言飛語だ。パニックってる最中に、「〜しないと!」って言われると、思わず動き出してしまう。
このことは、情報の裏を取るというジャーナリストならやらないといけなかったことを、素人の私たちもやらないと踊らされることを示している。言葉には力がある。けれど現実と繋がりのない言葉は妄想だ。