【「2.6 書くことによるリフレクション」振り返り】

話しながら、どうも「書く」行為と「リフレクション」には、ベン図のように重なる部分と、重ならない部分があることが明確になった。

まず「書く」には4つのパターンがあった。一つ目は、記録重視。今ここで感じたことを兎に角記録しようと書く。
二つ目は、内的発露として書く。何か?こう言いたくなる衝動があり、それを吐き出す。書き終わると内容に興味はない。
愉しい行為。
三つ目は、読み手を意識する。書くことは苦行。好き勝手に書けず、よりよき表現を目指して吟味する。
四つ目は、じっと寝かせて言葉にまとまるのを待つ。起きたことは沢山の可能性を持ってる。その中から「私にとって、この体験が意味を持つとしたら?」の視点で、ストーリーを選択する。その際は「その場で起きたこと」と言うよりも、「私のこれまでの体験に統合するならば~」のストーリーが選択される。
だから、言葉化に時間がかかる。


こうしてまとめて、合意がとれたのは、「書く」行為一つとっても、人により、「何がやりやすいか?」「どこに力点があるか?」が異なるので、単純に「書けばリフレクションになる」とは言えない。むしろ自分にあったリフレクションを自覚することが大事ではないか?となった。
かつ教師力を高めましょう文脈だと、授業が終わったら時間をとって書くというのが定番のようだ。これが型に嵌まる人は、すごく書く。大量に書く。でも、多くの人にとり、そこまで時間が取れないのが悩み。かつ、書くのは得意じゃない。

「リフレクション」においては、「何のために?」が大事ではないか?
目的もなくリフレクションは出来ない。
テキストで「教育的契機」として紹介されているのは、書きながら違和感に形を与えていく行為。ここでも前提として、授業目的が設定されてるはずで、それに対して実際はどうか?を振り返っている。
当たり前のようだが、リフレクションする際には、ここを参加者同士が握ってないと、リフレクションにならない。非難や批判に成りかねない。
リフレクションには、合意された目標が不可欠だ。

ここまで対話すると、「書く」行為と「リフレクション」が同時に成り立つのは、ある特殊な条件、ある目指すべき状態と今ここで起きたことを照らし合わせた時に、どんなことに気づいたか?ということ。できれば、言葉にならない微細な違和感でも構わない。ある時を特定できるだけでもよい。言語化出来ないけれど、何か?がある。それを描写する中から、教えている瞬間には思い至らなかった別の可能性に気付く。従って、何か?失敗したこと。もっとうまく出来たであろうこと。を書いてリフレクションするのではなく、もっと生徒と当意即妙なダンスするために、ちょっとしたステップの踏み間違いに気付き、次回のダンスに活かすために、意識化、言語化するってことだろうか?言葉にならない何か?を言語化する試みなしに、改善は出来ない。