対話に先立つ1つの前提

2010年は「対話」がキーワードだった。ここ数年ずっとそうだったし、今もそうだったかも知れないけど、Ryoji☆の中で周りで「旬だなぁ〜」って感じていた。


で、いろいろ対話を経るうち、「いい対話だった!(爽快)」というのと、「今一だった(涙)」と、バラつきがあることがわかった。

先日、コーチ仲間に紹介されてソフトバンクの孫さんとグロービスの掘さんが3時間18分の徹底討論した際の言葉を読んだ。で、対話について考えさせられた。

対話とはお互いに変化を起こすものなんだなぁって感じた。変化の可能性を信じるから対話しようとする。それは一方的ではなく、お互いが変化する。
従って、今の自分の持論だけ言うだけだったら、それは対話じゃない。水と油。双方に変化がなければ言い合いでしかなく、対話ではない。


そして、対話には安心して語れるって場が必要だ。
まず「どんな想いで語ろうとするのか?」主張の前にある何かをシェアすることが大切だ。主張は想いから生まれる。主張は変わる。大切なのは想いであって、主張ではない。対話で変化が生まれる可能性があるのは、対話を通じてより良い想いの実現可能性が開き、主張への執着を手放せるからだ。想いもまた階層になっているので、より根源的な想いに触れると不可逆な変化となる。


その昔、ソクラテスが行った対話(プラトンが描き出した風景)は、ソフィストに対応するものだった。ソフィストはどのような立場であれ、主張を言い通す技術に長けた人たちだった。今になって考えると、それはそれで弁論術の極みと言えるし、この世界は、そうした論議を尽くすと、結局相対論に行き着き、「何を信じるか?」のある整合のとれた世界観に帰結する。ある意味、世界はある世界観で矛盾なく描写しうる。だから、信念同士がぶつかり合うと、そこに共通了解を生み出すのは難しい。理を通すだけでは、自分が正しいとするならば、違う主張をする相手は間違っていて、極限に走れば、そうした相手を殲滅するまで止まらない。
そんなソフィストの考え方に浸っていると、相対論が虚無感を呼び込んでしまう。世界に確かに言い募れる万能な主義、主張はないと感じられるからだ。
ギリシャでは理性により真善美を追求する哲学が生まれた。インドでは伝統的慣習に基づくのではない宗教が生まれた。中国で儒教のような新しい道徳が生まれた。
日本にはインドや中国の影響があったので、宗教や道徳については免疫があるが、哲学については今一つだろう。
対話という理性に基づくやり方は、日本人にとっては新しいコミュニケーション方法なんだと感じる。(知ってはいるけど、作法とかルールに疎い)
だから、その良さと、危険性の両方に心配りすることが欠かせない。
是非良い対話で、私たちの想いを深め、より良い主張へと深化する道を歩んで行きたい。