自助・共助・公助

東日本大震災の取材をしている吉田典史さんの記事(ダイヤモンド・オンライン参照他人のために死ぬことは「美徳」と言えるのか?南三陸町の女性職員を道徳教材にした教育者の“良識” | 3.11の「喪失」~語られなかった悲劇の教訓 吉田典史 | ダイヤモンド・オンライン)に「自助・共助・公助」の順番が書いてあって共感した。吉田さんの感覚では、「自助>共助>公助の順番ではないか?」とのことだった。

先ずは自らの身の安全を確保することが最優先。

埼玉県の教育委員会が、道徳の教材として、南三陸町の役場で、津波が来るので逃げるように放送をしていて亡くなられた若い女性職員のことを取り上げたことを取材されていた。
吉田さんの見立てでは、自らの危険を顧みず公のために尽くしたという美談ではなく、上司の指示に従って行動していただけかも知れない。まさか津波に町舎の3Fで襲われるとは思わずに。「道徳の教材に取り上げた」と埼玉県の教育委員会の方がご両親に報告した際、ご両親からは取り上げてもらっての感謝の言葉はなかったとのこと。
吉田さんが取材をされていて感じるのは、現地でのつぶやきと、首都圏でのつぶやきに差がある。例えば、自衛隊への評判。現地では「引き上げるのが早過ぎる!」という声がある。首都圏だと「(自衛隊は)よくやった!」という声がある。

少し前に「叱るではなく褒める」というのが大切って、褒め言葉本が売れた。これはRyoji☆の勘では、共助の崩壊と関係があると思う。元々日本人はお上を信用していない。同じ共同体内で何とかするって風土が強かった。共助が強く公助はあてにしていない。高度経済成長期を経て広がった都市生活は、そうした地縁に基づいた共同体を粉々にした(共助から人々は放り出された。)。しかし、同時に会社が新たに人々を繋げる共同体となった。現在、その会社すら共同体として機能しなくなり、西洋でいう普通の会社となっているのではないか?
結果、公助も頼らず、共助もなく、全く縁が切れて孤立する人が増えていっているのが今現在なんじゃないだろうか?

こうした孤立死、無縁死が相次いでわかって来たのは、私たちが「常識」と考えて来た世界観の崩壊であり、改めて現実にあった、現実に即して、「今の私たちにとって何が必要か?」を、私たちが私たちとして繋がり合える言葉なり、思想なり、イデオロギーが求められているのだと思う。


一応、図書館っていう行政の末端にいると、お上、公助の出来ることは限られていることが身に沁みる。世間からの行政に対する視線は厳しい。だから組織防衛としてリスク・マネジメントすると、本当に限定された範囲でしか出来ない。真に望ましいのはグレーな部分を別の機関同士がお互いがサポートしあえたらいい。しかし現実には、法律で定められたある限定された領域だけを頑なに死守し、グレーゾーンには手を出さないという姿勢にならざろう得ない。


従来の「常識」が通じない現実に直面する今、自助・共助・公助はどんな風にあるのがお互いが嬉しいのか?だとしたら、制度はどう設計したらいいのか?そこで「よい」とされる道徳は何なのか?
非難しあうのではなくて、どうなっていたら私たちは幸せなのか?を語り合いたい。