根本仏教(原始仏教)と大乗仏教;Co-Active CoachingとORSC

「仏教講義―根本仏教大乗仏教の会通を語る」増谷 文雄 佼成出版社 (2005/01)

仏教講義―根本仏教と大乗仏教の会通を語る

仏教講義―根本仏教と大乗仏教の会通を語る

(単行本 - 2005/1)http://www.bk1.jp/product/02514858を読んで、とても刺激を受けた。で、インスパイヤされたことを書いてみる。


増谷さんはグローバリゼーションの発展により、日本で現在息づいている仏教が、仏教伝達の過程を経て、かつ、地域の歴史によって変遷を遂げた結果であり、開祖であるブッダが説いた内容とは大幅に違うことを知った。そこで、仏教学者として、開祖ブッダが説いた教えと現在の大乗仏教の共通点を探り出そうとこの本を書かれた。苫米地さんが「最近になって、原典からの仏典の翻訳が進んだんだよ〜」と聞かされて「うんなばかな!」って思っていたけど、どうやら本当らしいと知った。日本で翻訳されて来た仏典はすべて中国経由なので、スリランカや東南アジアに伝わるパーリ語の原典や、チベットや中国語訳だけに残っている仏典を比較対照して研究した結果、たぶんオリジナルはこんなんだったんじゃないか?って、最近明らかになって来たのだ。

で、原始仏教根本仏教)を知れば知るほど、宗教とは思えない。とても合理的だし、2005年からRyoji☆が学んで来た各種諸々が綺麗に統合されていく感じがする。もっとも後世からのブッダへの神格化が著しくて読みにくかったり、なんじゃらほい?って感じるところも多くて、なかなか消化しにくいのは確か。

例えば、「第二の矢を受けず」って教えは感動。
「比丘たちよ、まだ教えをきかぬ人々は、苦受をうけると、歎き悲しんで、いよいよ混迷するにいたる。それは、ちょうど、第一の矢を受けて、さらに第二の矢を受けるに似ている。それに反して、すでに教えをきいた人は、苦受をうけても、いたずらに歎き悲しんで、混迷にいたることがない。それを、わたしは、第二の矢を受けず、というのである。」(相応部経典、36、6、箭。雑阿含経、17、15、箭。)「仏教百話」 増谷文雄 ちくま文庫1985.12 p131

仏教百話 (ちくま文庫)

仏教百話 (ちくま文庫)


Ryoji☆の知識で言うと、感情モニタリング法(略して、感モニ)における反応性感情と態度性感情にあたる。

外的な刺激を受けて、とある感情が起きる。それを人はコントロールできない。
しかし、そうして起きた感情に対して、どんな自分でいるか?選ぶこともできる。

刺激→反応 =自動  (反応性感情)
   ↓
   感情 =選択可能(態度性感情)

それには、ある程度心理的な訓練が必要。訓練さえすれば、誰でも可能だ。
ここでブッダが語っている内容は、感モニじゃなくて、ブッダの説く内容=法=ダルマだけど、瞑想する=マインドフルネスになるってことは、それをする力が自分にあるってことを自覚していくことだ。
「7つの習慣」で「Pro-Active」と命名している概念と一緒だ。


で、そんな増谷さんが整理してくださっている図式に、感銘を受けた。

自己形成 上求菩提 自利行 分別 分析的方法 根本仏教原始仏教

大衆救済 下化衆生 他利行 無分別 直感的方法 大乗仏教


これを読んで衝撃を受けた。
Coachingとは、この上求菩提を個人に対して行う究極の援助法。(現在、読み進めている「メタ・コーチング」なんか読むとその感を強く持つ。)そして、Co-Active Coachingとは、おそらく歴史史上初めて直感的方法をそこへコンビネーションさせたやり方なのかも知れない。

そして、それが故に、Co-Active Coachingに触れた人は、自分がやっているコーチングは自己形成なのか?大衆救済か?の狭間で揺れるのだなぁ〜と。

Ryoji☆が知る限り、Co-Active Coachingに嵌る人たちは、他利行の傾向が著しい。
だからこそ、1on1のコーチングに飽きたらず、ORSCへ流れる傾向にあるのだなぁ。
より多くの人たちと関わり、より本質を目指して生きるようになってほしい!


じゃ、同じように悟りを開いて教えを伝えだしてから、他者援助に生涯をかけたブッダは一体どう考えていたのか?
ブッダの返答がふるっていた。
より多くの人へ仏教を伝えるってことをしないんですか?と尋ねた人に対して、
確かにそうだ。
だけど、この道(仏教)を歩む人が、一人、二人と増えて大人数が歩めば
それはもはや多くの人を救済するってことになるはずだと。

ブッダの生まれた時代と現代を比較すると、ブッダがそう考えたのも最もだ。
紀元前500年頃(今から2500年前)だったら、そうするしかなったろう。事実ブッダの10大弟子と言われる人々は、皆当時の上流階級の出身者だった。ブッダの教えは、2500年経っても古びないほど、核心を突いたすごい考え方だ。


そして、なぜRyoji☆はフォーカシングにこだわるのか?もこれでわかった気がする。

仏教革新運動であった大乗仏教を唱えだした人々は、意識のクオリア、今ここで生きることにこだわった。ブッダの悟り過程をつぶさに省察した結果、知識や理性としての到達でなく、直感がこそが大事。Ryoji☆的言い回しだとフェルトセンスがなきゃ、意味がないってことを言いたかった。

それが歴史的な過程を経る中で、ドンドン直感でよいんだ!って主張が極端になり、宗教と化した。日本人が大好きな親鸞聖人は、まさにその最極に位置づけられる方だ。それはブッダが、私という個人を神格化するんじゃなくて、私の教え=言葉を尊びなさいと言ったことが、教えの絶対化を呼び、究極は信じるか信じないか?つまりは宗教と化していったのだ。

フォーカシングは、それを誰にでもわかりやすく定式化したやり方で、穏やかにスーと入っていける。


で、こうして整理をしてみて感じるのは、Ryoji☆は上求菩提の傾向が強い。そして、下化衆生にはあんまり関心がない。いかにRyoji☆を生きやすくするか?で、精一杯で、とてもじゃないけど、他の人のことなんて関わってられない!って感じがする。
そういう姿勢のRyoji☆は、利己的なんじゃないか?って思って、罪悪感を感じていたけど、べつにそれでいいじゃん!ってなんかスッキリした感じ。

そして、ブッダじゃないけど、こうしてRyoji☆なりに整理できた地図を、多くの人に語りたいって欲望はある。やるやらないは自由でいいけど、もし悩んでいるのなら、どこら辺で悩んでいて、それにはこんな考え方ややり方がありますよってことは伝えたい感じ。スッキリした方がお互い気持ちいいでしょ(笑)