自分事という結論に嫌気が差す

コーチングに出会ってほどなく、すごく嫌な考え方だと思うのが「失敗はない。学びがあるだけだ。」という考え方だ。Ryoji☆は常にどこかに判断の審級を持っているので、「んなこと言ったって、失敗は失敗じゃん」って思う。その能天気さにイライラさせられる。


この所入れ込んでいたPOP。これも、全てがワンネスに帰結するなら、嫌な感情も、嫌は対象にあるのではなくて、Ryoji☆自身の内にある。要するに、全て自分がどう受け止めるか?にかかっていると、行き着く。何かにぶつかるってことは、そこがRyoji☆の壁ってこと。だから、先に進みたいならインナーワークして、乗り越えなさいとなる。


どちらも根本発想が似てる。


フッサール現象学を知って、理性として考えるならば、そうなんだろうと、理詰めには思う。私たちは主観から逃れられない。究極的には、わかりあえない。いわゆるクオリア問題。だけど、共同主観が成り立ちやすい分野もある。例えば、物質について。


だけど、Ryoji☆の気持ちが納得出来ない。「そんな筈ないじゃないか!」と叫びたくなってしまう。


Ryoji☆ではなく、相手がそうRyoji☆にさせるのだ。
この痛みはRyoji☆由来じゃなくて、あいつから来てるんだ!として、完結させたい。そして、この痛みを相手に叩きつけ、攻撃したい。あいつが悪い。あいつがRyoji☆を傷つける!


ブッダもまた、この展開を許さない。原因を滅することで、こうした悪に身を浸さない。全てはあるがままに。執着を手放す。


コーチングが嫌いなのは、こうした繊細さに鈍感であることだ。癒しをもたらす筈のPOPで、何故こんなにも苦痛と向き合わねばならないのだろうか?前提とされる人間観は、そこでへこんだり、生産性のない、恨みつらみの過剰ポテンシャル増加に手を貸さない。キッパリ、スッキリ、そうした負のスパイラル、無明に迷わない。だから、コーチは耳を傾けない。それはサボタージュとして脇に追いやる。合意された現実を生きて行くのに、それとダンスしても全く機能しないからだ。

だけれど…。そうなんだけど…。苦悩好きなRyoji☆は、やはり苦悩したい。光の力強さも、活力溢れる人生謳歌力も心地良いけど、でもどうしょうもなさに絶望したい。打ちのめされたい。暗黒の闇の中で孤独を噛み締めたい。
この痛みこそ、Ryoji☆が聖者ではなく、凡夫の証。
理を知ってなお、Ryoji☆は拒絶する。

孤独の闇の中、それでも死が怖くて、生にしがみつく醜悪さ。「ほんとどうしょうもない」と、Ryoji☆自身を嘲る。その浅ましさこそ、器の小ささこそ、Ryoji☆の本性。そこを見つめずに、他者に伝える言葉はない。

そんな幽かな命の瞬きを感じていたい。