お金・つながり・簡単だけど難しいこと

この週末「リトリート・センターを日本に創ろう!」の対話の会に山中湖まで出かけた。殆ど食べる準備と食べること。後片付けに費やして、Ryoji☆自身は肝心の対話になったら、ほとんど寝ているという情けなさだった。

で、ちょっぴりだけ起きていた時に紹介された3つのエピソードに考えさせられた。

まずカーナビの話。いつも彼女の家にカーナビで行っていた彼氏。カーナビ装置のない話し手の車に乗って彼女の家に行こうとしたら、道がわからなかった。

2つ目は、お金があると時間を短縮でき、いろんなことが出来る。
インドのガンジーの弟子の弟子の人が、ある時思い立って、核保有国を訪ね、核廃棄を訴える旅をしようとした。師匠曰わく「お金を持たずに行け!」。その言葉通りに、人づてで世界を回って無事インドに帰って来た。
ネパールのラダックは1970年代まで近代化していなかった。1980年代お金が入り地域の共同体は崩壊。出稼ぎに出た娘は、テレビや洗濯機を手に入れ便利になったが、遠くから訪ねて来た母親と話す時間は無くなった。


3つ目は、なんでリトリート・センターなのか?そして、おそらくそこに関わっていく人は移り変わる。じゃ、関わる人を超えて、DNAって言えることは何か?私達はつながっている存在だということを、特に声高に唱えるでもなく、場に入ったら何となく、あぁ!と気付くんじゃないだろうか?


まずカーナビの喩えは、笑えるけど笑えない。それだけ私達は、5感を働かせて感じ取ることを忘れてしまっている。移動しているにも関わらず、周囲とコミュニケーションせず、カーナビとだけコミュニケーションしている。きっとどこか変?とぼんやり感じても何が変か判らない。ただ何となく不快っていう感触がある。


2つ目の話を聞いて、お金は便利だけど、お金が介在することで、失っている何かもある。それは手間暇をかけた人と人との繋がりじゃないだろうか?単にリトリート・センターが出来て終わりじゃなくて、そこに向かうプロセスにおいて、あぁでもない。こうでもないと、話し合い、ぶつかったり、協力していく中で培われた何かにこそ、これからリトリート・センターを創ろうとする私達にとって大切にしたい何かが立ち上がってくる気がする。
そして、外部と繋がりを保つには、お金のやりとりは欠かせない。しかし、お金の原理に支配されてしまうと、私達が創りたいことが出来ない。自覚して意識して関わることが欠かせない。

3つ目は気が付けば、なーんだ。そんなこと。簡単なことじゃん。ってなるだろうけど、すごく難しいことでもある。原理が違う。敢えて説明すると、正しさの原理とエロスの原理の違い。これは説明出来ない。いいな!って感じるしかない。何をいいなって感じるかは、個人差があり、それまでの人生において何を身体化して来たかによるので、一人一人が自分を感じるしか他にわかる方法がない。ここで伝えたいのは、足るを知ること。欲望の際限なさに振り回されないこと。どうあると満ち足りるのか?静かに心を落ち着かせて、周囲を受け止め始めて、いろんなことに気がつき始める。そんな気づきやすい場をリトリート・センターで整えることは出来ても、気づくかどうかは、個人による。何を言ってんだかサッパリって人もいれば、あぁそんなこと。わかりきってるじゃんとなるかも知れない。それ程自然に身を任せ、浸る感覚は何かを呼び覚ます。そこから、いろんなことが見えてくる。

イシュマエルという小説によると、人類にはテイカーとリーバーの2種類の人がいる。テイカーは根こそぎ奪っていくので、分かち合いの精神があるリーバーは常にテイカーにかなわない。

多分、テイカーは足るを知る感覚が希薄で、常にどこか不満があり、イライラしている。リーバーは足るを知り、今この時をちゃんと味わいながら生きてる。

昔読んだ歴史書に、こうしたコミュニティーを社会制度化しようと、実験が行われたり、革命が起きたりした。しかし、全てその試みは、長続きしなかったと記述があり、印象に残った。まさにテイカーにリーバーは勝てないのだ。

そしてそこにこれからの私達がどんな未来を創りたいのか?が懸かっている。多分これまでにない、新しい原理が必要なのだ。おそらく東からの風とは、まさしくその辺りの知恵を世界に向けて発信することなんだと思う。


エンデの遺言「根源からお金を問うこと」

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イシュマエル―ヒトに、まだ希望はあるか

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