「今」を生きる困難さ

Ryoji☆は整理整頓が苦手。会社の上司から何度も「いい加減、机の上を整理しなよ」と言われ続けてもやらないし、家でもほっとくと本が氾濫して足の踏み場がなくなってしまう。Ryoji☆自身、自覚しているが、物理的に身の回りを整理することが苦手だ。


こうしてブログを書いていると、日々こんな体験をした。こんなことを考えたとアップしたくなる。
ところが、ちゃんと起きた出来事をRyoji☆自身が納得のいくように描写できず、次々書きかけで未アップ内容が増えている。


これも昔から抱えてる悪癖。小学生5年生時に「ウサギ草がモルモット草に」という題の、遠足の感想文を40枚近く書いた。「起きた出来事をちゃんと描写しつくしたい!」そうやって微に入り差異に入り記述してると、時間が足りない。書く枚数が増える。どんなプロセスでそうなったのかを記述し尽くしたい。そうかといって途中で投げ出すことも出来ず、「続きを書かなくちゃ!」って思うけど、ちっとも進まない。それが増えて気分が滅入る。


ふと、これは「『今』をちゃんと生きることの困難さをよく表してる」と気づいた。つまり、そんな過去のやり残し、未完了が積み上がって、「今」は常に過去にフォーカスがあたってる。だから、今に気持ちが戻らなくて、「今」がないから「未来」もない。Dんなに「『未来』に因を投げるだよ!」と言われてピンと来なかった。ゆったりと頭をフル活動してやっと「成る程」とその理屈が腑に落ちた。この土曜日にFゆFゆのセミナーに参加した後、この文章を書きながら、ハッとした。FゆFゆがセミナーを主催して、FゆFゆにとって満足のいく結果を得たのは偶然じゃない。ある過去の時間軸において、自分の未来はこうしよう!と「未来」に因を投げたから、やがてそれが現実化した。つまり、「今」を「未来」に使えばそれだけ本人にとって望ましいことがやがて今になる。Ryoji☆から見るFゆFゆは、やたらめったら「今」を「未来」に使っているので、次々と望ましい今が降り注いでいるように見えるのだ。


「今」をちゃんと生きる。


あなたは今ちゃんと生きてますか?