WorldWorkの手法に限界があるのはわかる。でも、実施するのに安全じゃないとすると話は別で、何かやり方を考えないと、このままやれないと思い悩んでいた。
率直に藤崎さんにお尋ねする過程で、3つほどハッとした。
1つ目は、文化の違い。WorldWorkのビデオを見て、度肝を抜かれた。参加者が実に多様。理解不能な圧倒的な他者に取り囲まれた世界。語られる内容に全然共感出来ない。「へぇ〜」とは思うけど。普段ほうって置かれても共感してしまうRyoji☆には、新鮮な体験だった。そこから生まれたWorldWorkを日本にそのまま導入するのは、幾つか工夫しないと思った。
間違いなく「対立」にエッジがある日本では、対立がありそうになると、まぁまぁと宥めて、曖昧にして対立を不鮮明にする。それが日本の流儀だ。明らかに「私たちには『対立』なんてない」って地点からスタートする。そもそも対立するロールがなかなか立ち上がらず、ファシリテーターがゴースト・ロールに入って場の自覚を促す時も必要になる。そうやってすらロールに入ろうとするたびに、ちゃちゃが入る。「私の声を聞いて!」「私のプロセスが尊重されていない!」と、場に持って行かれるのを参加者が拒否している。
だから欧米でルールは嫌われる。自由な表現を縛るものだからだ。日本でルールは歓迎される。とりあえず、疑心暗鬼のお察しに労力を割かなくてよいから安心なのだ。
2つ目は、教え教えられの関係においては、依存の想定が日本にはある。先生は生徒の面倒をみるべきだ。先生は生徒のことを察し、導くべきだ。
話ながら、プロセス・ワーカーのスタンスは違うことがわかった。教え教えられではなく、お互いに教え合い、学び合う関係と想定している。だから、ファシリテーターに家父長のロールを求める。場の安全性を保証しろ!と迫る。
ところが、WorldWorkはそこにいる誰もが共に学び合うやり方だ。何故なら、私たちは特殊でありながら全体を現している。世界の軋みや希望が確かにここに詰まっているのだ。
この背後に背負う何かが最初はわからないので、ロールという不自然さをやる意義がわからないのだ。
3つ目は、こうして話ながら、客観的にそうなのか?Ryoji☆の主観でそう感じているのか?判らなくなってしまった。Ryoji☆自身の見方もまた一つの視点。共同主観を作っている全体の一部。
Ryoji☆に感じられたのは、多様な気持ちの在りようが無視されたと感じる人が現れる度、「NO!」のエネルギーが立ち現れた。別に解決策を求めている訳じゃない。同情してほしい訳でもない。ただ存在を認めてほしい。あなたはそこにいる、と。
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