対話:共通了解を生み出す苦しみ

今、浮上するキーワードに「対話」がある。

1992年アメリカに留学して驚いたことの一つに、大学生は大学に勉強に来ているってことがある。自分が何を学びたいか?自覚している。そして、出来ることはめっちゃ出来るけど、出来ないことはめっちゃ出来ない。自分のスタイルがあって、我が道を行く。シャイな人も、ラテンのノリで明るい人も、アジアからの留学生も、みんなユニークだった。自分にない能力を持っている人への敬意と尊敬がある。だからこそ、プロと見做される領域に変な制限はない。やれる範囲をやりきる。

で、そうしたことを可能とする、スピーチやプレゼンテーションもartの一つとして認められ、学ぶ。このスキルがないと、異文化の坩堝の中では理解してもらえない。だからアピールのスキルは大切なのだ。

プラス、論拠の提示を繰り返し学ぶ。高校生ぐらいだと、百科事典からの引用でよかったけど、大学生となると必ず孫引きでなく、直接引用を求められる。これによって、改めて何かをやる時、お互いの論拠がわかるので、求めているものを高めやすくなる。


対話に加わらない自由もまたある。眺めている立場もあるし、全く無関心の立場もある。

信念の争いは、真偽にしかならず、理解はない。歴史を紐解くと、虐殺が起きるのは、ある信念を強引に現実に当てはめようとする時だ。

今のこの得体の知れない苦しさは、私たちにとっての共通了解を作り出すことに私たちが失敗しているからじゃないだろうか?次から次に湧き上がる問題。しかし、私たちにとって大切な問題をちゃんと対話して、お互いの理解を生み出しているんだろうか?

そして、頭の理屈レベルでなく、気持ちレベルで、違いを認め、その上で、共に生きるけとがどうやったらできるかを了解しあう。それが求められている気がする。