過去の文章への態度

Ryoji自身の過去とどう付き合うか?最近気になっている。
それはどんなに消したりたい過去であっても、その時のRyojiはそうだったと受け入れるしかない。こうやってブログを書いていると、ふと読み返すと恥ずかし、愚かだったり、たわいもないことを真剣に悩んでいて笑える。そしてあちゃー、悪意に取り込まれているよと思う。その後の変化した文脈を捉えて貰えず、執拗に一時点の過去を持って断罪する他者が現れるかも知れない。でも、今のRyojiがRyojiであるのは、そんな過去を潜ってきたから。
今ここであなたと共に意図を確かめ合う可能をRyojiは諦めない。何度失敗しようが、断絶があろうが、次に空を飛べる可能を試みる前から諦めはしない。違う方法でトライする。だから、そんな醜いRyojiを受け入れる努力をする。確かにそんな状態であったりするのがRyojiだと。そこから逃げ出してしまったら、それこそRyojiが傷つけてしまった人の前に、笑顔で立てなくなる。無い責任を敢えて取る。確かに、これがRyojiに起こったのは、Ryojiの中の何かが引き寄せてしまったから。(そんな風に全然思えなくとも。)そして見る。今ここでRyojiはどんな選択を選ぶのか?を。繋いでもらった命を慈しんで生きるとは、少しずつでも生きる輝き、可能を顕在化させることじゃないだろうか?こんな風にあれるのもRyoji。色々なあれる可能の中から極私の極みを選んでこそ、人の革新を示すんじゃないだろうか?断絶、結構。例えそんな過去があろうとも、RyojiはRyojiを生ききる。やせ我慢かも知れないけど、そんな風に過去と向き合いたい。

不思議なほど仕事がうまくいく「もう一言」の極意

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