「失敗」と責任

仕事において一度「失敗」すると不運が続くみたいで、同じお客様に連続して別の失敗して、周りの会社の同僚にご迷惑をかけた。申し訳ない。

で、コーチングでいう「失敗を祝福する」って考えに想いを馳せた。今回処理をこちらが忘れたために、納期を大幅に過ぎてしまった。で、弊社と取引を中止。謝罪の文書を出せ!と先方は言う。取引中止はしゃーないとしても、なぜ文書か?それは「私は悪くない。あなたが悪い。」を証明するためらしい。(議会で追求された時の資料だそうで)先方の上司はまぁまぁと宥めて下さって文書はないということになりそう。こちらが悪いので、口頭で謝罪するのはわかるが、なぜ話がそんなことになるのか?理解しがたい。年一回の注文。承りも来ない。2か月経って人事異動になる直前の問い合わせ。なぜ一言「どうなってる?」って確認してくださらないんだろう。非はこちらにあるのだが、文書の要求はやりすぎじゃないだろうか?

これがリアル。なんて現実世界は理不尽なんだ!だから、失敗は怖い。どこまで責任をとればいいのか?わからない。自分一人ならいい。関係ない会社の仲間へまで波及するのは嫌。日頃言われたことを100%パーフェクトにやって当たり前の今の仕事。こうしてたまに失敗をすると、えらい勢いで怒られる。(自分の評価では、うまくいっている8割。ちょっと失敗から大幅失敗まで2割)そういう環境に置かれると、どんどん自分の仕事が小さくなる。失敗(リスク)を恐れ、自分の能力で出来る範囲にとどめようとする。どんどん出来る範囲の輪が小さくなる。やらなくてもいい、確認手続きばかり増えて、仕事の生産性は上がらない。

Mっしーさんが「『失敗』って何?」と先日勉強会で問うていた。失敗とはある視点から見た時。逆に学びって視点からみると、それは学びだ。「やる」という心が折れない限り、失敗はない。学びがあるだけ。そこに対しては、そういう選択をした自分へ責任を取っている。リスクをとっている。

我々はいったいどんな世界を望んでいるんだろうか?
失敗を許容し、自己責任を明確にした世界は、声をかけあう世界。指さし確認の世界。確認をして、リスクは指摘するけど、やっていいよの世界。
一方、失敗を許さない社会は、息苦しい。規則で、やっちゃいけないことだらけ。でも、安全。(本当に安全なんだろうか?)

コーチングと出会って泣いてしまったのも、その可能を感じたから。その相互サポートの世界は温かった。

<事実>仕事でJijiは大きなポカをした。
<発見>Jijiは自分の範囲の責任は取ろうとした。
<教訓>自分一人では追い切れない責任もある。
<宣言>Jijiは相互サポートの輪を世界に広げる人です。

影との戦い
影との戦い
posted with 簡単リンクくん at 2007. 4. 7
ル=グウィン作 / 清水 真砂子訳
岩波書店 (2000.7)
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