言葉の重さ・日本・公共vs世間

日本の政治がダメで日本の政治家がダメって言うのは簡単だし、それが当てはまる部分も大きいのだろうけど、それを100回会話しても1ミリも現実は変化しない。


最近、言葉の重さが関係してる気がしてる。
今の日本では政治空間における言葉が軽い。言葉と現実の遊離が激しい。政治家はステイツマンと言われるぐらい、言葉に重さがあった。雄弁である必要はなく、演歌のように、そこにエネルギーが込められているかが大切だ。理屈的にはそうだけど、それを超えた深さ。これは譲れないという気迫。

コーチをしていると、Ryoji☆自身を含め、実に理路整然と語ってくれる方がいらっしゃる。しかし、Ryoji☆には馬耳東風。まるで心に残らない。理屈は正しい。うん。見事に正しい。文句のつけようがない。だけど…。うまく表現出来ないけど、あなたに触れた気がしない。あなたを形造る言葉は、言葉になるか?ならないか?の境界線にある。その人の魂に触れた言葉かどうかは、聞く耳を持った人にはわかる。Ryoji☆の感覚では、それは矛盾を含んでる。割り切れない中から絞り出される言葉。気持ちを言葉に乗せて発する吟味をした言葉。


それは世間に捕らわれない。「弧」としての孤独に耐え者だけがが歩む道。決めた者だけが得る言葉。


Ryoji☆が描く理想の政治家はビジョンを持って、意志決定の言論空間を創造する。人々はそれを聞くことで自分の主張が見事に代弁されていることに納得する。そして、言葉の力で格闘する。そのオープンで、かつ、迫真のやり取りに、納得する。で、交わされた決定を我が事として受け入れる。きちんと代弁された結果には仕方がない。従おう。


この理想のプロセスが生まれるには、言葉に重みが必要だ。でなければ、代弁して貰ったことにならない。


日本は世間という得体の知れないものに浸食されがちだ。気分やムードが場を支配する。それは同質性を前提とした暗黙の共通認識に浸ってる。そこに異なる意見の異人は不要。違っている者は排除される。


そんなコミュニケーション・パターンを持つ日本において、ステイツマンであるのは大変だ。討論空間からみんなの決定を作りたいのに、常に別の要因が忍びより、言葉の力と関係ない所で意志決定がされる。だから、言葉の技術を磨く必要もないし、言葉は建て前であって、言葉のやり取りから真の決定は生まれない。だから、いかに言葉上の建て前をやり過ごすか?だけが発達する。すると、私たちは「話して決める」虚しさを学習する。共に話すことは何もない。誰かに強制するのは、言葉の理屈じゃない所で決まる。そこに理想はなく、エゴのぶつかり合いによる妥協の産物だけが蓄積する。公共とは、弱者を踏みにじる代名詞と化す。


どうしたらよいのだろうか?
逆に私たちはどうなっていたいのだろうか?まさにデザイン力が試される。


「こんな日本だからダメ」と100回主張しても現実は1ミリも変化しない。


苦い現実を認めよう。そう、私たちは意志決定において、意見集約を失敗している。そういう文化空間の中にいる。で、そこから、そんな状態の中から何が出来るのか?私たちの身の丈にあった仕組み。そして、今ここからでも、今の私たちが出来ることをやっていくしかない。愚痴や評論する暇があったら、対話しよう。みんなで話せば、上手な意志決定を作り出せる。遠回りだけど、ここがスタート地点だ。