つながりつつある何か

Co-Active Coaching以外の領域へ学びを広げることで少しずつ、学びの繋がりが見えてきた気がする。Dんなが「Co-Active Coachingもいいんだよ」と言った趣旨のことを言うのを聞くと、「Co-Active Coaching素晴らしい!」の視点にいたRyoji☆は寂しい気がした。しかし今、逆にそんなDんなの心情と近い領域にRyoji☆もいる気がしてる。


この所、機能すると感じられる時には必ず、対象への敬意を感じる。それがそうある在りようにまずOKを出す。すると、ハコミでいうラビング・プレゼンスの発露で場が満ちる。各種技法は違うし、よって立つ理論も違うけど、真に大切なことはそのメタスキルじゃないだろうか?すべてはあるがままに。関わる人が持つその姿勢がクライアントさんを開かせるのだ。


Kつやの志向性として、実験しながらより新しいもの、よりよいものを作り出そうって姿勢がある。それにはすごく共感する。東洋では師弟関係があり、技を盗むって伝統がある。西洋では、みんなにとって再現性があることは何か?という科学の伝統がある。
Dんながミンデルさんは臨床で発見した小さなことを少しずつ大きな理論へと繋げていってるんじゃないか?といった趣旨の感想を述べていて、Ryoji☆の欲求として、その新しい知が開こうとしている所にRyoji☆も一緒にいたい!ってのがある。

大学時代に「野尻キャンプ論」って、どうしてRyoji☆は野尻キャンプを素晴らしいと感じるのか?いろんな仕掛けから説明しようとした。書き上げて、当時のRyoji☆の知力の限界を感じた。ちゃんと説明出来てない…。「10年後、あれは何だったのか?改めて考えてみたい」として当時筆を置いた。今も「あれは何だったんだろう」って疑問は解けていない。だからこそ、それを知りたいという欲求がまだここにある。


もう少し。もう少しなんだ。