祈・呪・祝

古典の時間、平安時代の日本人は、夢と現実のつかない、未開な人。合理的思考のできない、文明開化してない、奇妙な年表の今日はこの儀式をやるというのに縛られている、原因と結果を取り違えてると、鼻でせせら笑った。
で、呪のかけあいで、殺し合い。証拠が大切。やだねー。思い込みで決めつけるなんて。

だから、それと逆のよきを願う祈りっていうのも、うんくさかった。「祝福を贈る」は装飾語。実がない空虚さで飾っていると思っていた。

Jijiの中の「できない。できない。」と言う内的な打ち消し語によって、いかに闇の面ばかりに焦点を合わせているか?に次第に気付くにつれて、合わせて、巨視の視点に立つとすべてはつながっていると仮定するなら、「よきことが起こる」と願うことは、ものすごく弱いけど、意味あることだと思えてきた。より強くしたいなら伝えること。

同時感じるのは、それを受け取る感覚を養うこと。小さな祈りに感謝すること。そうして始めてそれは命を得る。当たり前のようで、実は得難いことが起こっているその巡り合わせを感じること。

闇属性のJijiとしては、簡単なようでとても難しい。なぜなら闇の力はすべてを飲み尽くす。そんなわずかに感じ取ることが無意味で、死んでいくように思える。怒・罵声・暴力・憎しみ・憎悪・恨み…。この圧倒的な力の前に、それはあまりにも無力でちっぽけで、意味がなくて、苦しい。

だとしたら、儀式をやっていれば大丈夫と、意味を見いだし、そこへ埋没する人生の方がどれだけ心やすらかだろうか?