人と関わることの怖さ

コーチングのクラスを受けている時、リーダーに「なんてあんたたちは無責任なんだ!」と怒ってくってかかる人がいたと聞いた。

コーチングではその人が枠=自分の限界って思っていることに「本当にそれはできないことなんですか?」とシンプルに聞く。

最初むちゃくちゃ抵抗しても、コーチが執拗に「で、本当にそれはできないことなんですか?」と聞かれる内に、渋々できる可能性を探り始める。

すると、もしこれとこの条件をクリヤーしたらできるかも?ということに気づく。

えぇ!

そしてひたすら具体的にそれが可能になった時の気持ちや、周りから応対について詳しくコーチは質問する。

で、「どうしたいんですか?」と質問する。

怒った人の気持ち。それはその人にとってできないことを散々できるかのようにあおり立てておいて、最後のしまいに質問する内容が「どうしたいんですか?」っていうのは、にんじんをぶら下げられた馬みたいで、できもしない夢をああいいですよ!と散々煽られて、結局実現できないとなれば生きる気力を失うだけ。何を考えているのか!ってことだと思う。正義のホワイトナイト。優しい心をもった方。




Jijiも最近なぜ中学生くらいからずっと将来自分は何をしたいのか?さっぱりわからず、中学で高校を選ぶとき、高校で大学を選ぶとき、大学から会社を選ぶとき、仮決めしてきた。ほんと自分が何をしたいのか?死にたくないのはわかっているけど、とりたててこれをやりたいなぞなかった。逆にこれこそ自由の不自由。近代が生み出した逆の意味の生きる意味の喪失か?などと思っていた。


コーチングを知ってしつこく単に訊かれた時、揺らぐ自分を感じて怒った。なぜこの人(=コーチ)はこう当たり前のことを「どうなんですか?」としつこく訊いてくるのだろう。で、おそるおそるもしの世界を考え始めた。

すると条件は必要なものの、決してできないわけではない。ただ、上げた条件をクリヤーするのは難しいと思っていた。

で、また今度はもしそれを実現できるとしたらどんなやり方があるか?訊かれた。難しいとは思うものの、いくつか達成する方法が思いついたか?この人に訊けば教えてもらえるかもぐらいは目途がついた。

そして再度どうしたいか?駄目押しをされた。当初どうやればいいかもわからなかったけど、今はいくつかの可能もわかっている。あとは、やるかやらないか?どうしたいか?だけ。


これはこれで一つ怖ろしい。
枠を作って「できないから」と言っている方がずっと心持ちとして楽。
それをコーチングは可能に光を注ぐため、否が応でも可能の芽を自ら見つけ出してしまう。
 なんとも言えず、コーチに持っていかれたという感触がある。


さらにこの上の恐怖こそが人と人が関わる恐怖。その時の学んできたスキルやBeingを総動員しても、頭が真っ白になり、次に何をしたらいいのか?さっぱりわからなくなる。クライアントにしても、コーチを信頼して、自らのパンドラの箱を空けたら、コーチが「ちょっとそれは扱えませんでした!」と撤退されても、この開け放たれてしまった私の気持ちはどうしてくれるの?これが嫌だったからずっと封印して来たのに!

ほんと人と関わることは怖い。それは前触れもなく突然ドーンと来る。

この修羅場状態の時にこそ、コーチの人として最後の腹の部分でどうしたいと思っているのか?が試される。

(1)関わりを絶つ。(2)今は力不足。近々もう一度。(3)コーチを辞める。


それでもなお、この痛みを知ってなお、あなたはコーチであろうとするのだろうか?

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S.チャンドラー〔著〕 / S.リチャードソン〔著〕 / 黒川 敬子訳
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