個人とロールその2

Dんなから、プロセスワーク心理学においてグループワークを行う時は


ロールは個人より大きく、
個人はロールより大きい。


と教えられた。

「はぁ」
そんな不等号が成り立つとはとても信じられなかった。

ところが今回グループワークをやっている中で「成る程〜」と唸ってしまった。
ある個性を持った個人が呼び寄せやすいロールがある。しかし、ロールという色眼鏡を通してみることで、逆に一体何がその人らしさなのかが透けて見えた。

特に実際の参加者が「ロールを意識してとってる」と言われた時、Ryoji☆にはその人とロールが分離せず一致していた。だから驚いた。


海外でのワールドワークでは、更に個人とロールは区別がつきにくく、ガンガンにやり合うと聞いた。
恐らく文化風土の違いにより、欧米では異なっている方が当たり前なので、お互い自己表明に戸惑いはない。逆に表明しないと、声として認識されない恐れがあるので、声を出すことが要請されている。
ところが日本は、違いを恐れる。同一であるのが前提なので、きっちり個人でなくロールだ!と分けたがらない。そしてどちらかと言えば、ロールをとり、個人をやりたがらない。
この構造こそ最近漠然と推測している、全と個が人の内では同時処理なのでないか?というまだ説明にすらならない何かによく当てはまる事象と感じられる。

仏教的発想でいう、無我が感じられる。自我はそれだけ出て来た成り立たず、関係の網の中から生み出される何か=自己なのだと。



最後に今回の会場そばのお寺に十返舎一九の墓があり、ファシリテーターのTけさんが掲示板にあった辞世の句を紹介して下さった。


この世おば どりゃお暇に 線香の 煙とともに 灰左様なら 十返舎一九


明治が始まる20年ほど前、こんな明るくこの世とおさらば出来た。死を怖がってない。Ryoji☆の死もこんな感じで、明るくサッパリと迎えたいものだ。