「悩む」と「考える」の違い

 ビジネス書でベストセラーになってる「イシューからはじめよ!」。大分前に買って少し読んで「なるほど」と思いそれっきりになっていた。

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 今回Facebook上で、FF10(ファイナルファンタジー10)のストーリーとこの本で紹介している 「イシューからはじめよ!」を具体的に関係づけて解説してくれて、「それって日常あるあるだ!」と、やっと腑に落ちた。特に解決の質のベクトル。これって日本風に言えば、道を極める系。でも横軸のイシュー度を考えないで極めるに突き進むことが多い。
イシューからはじめるFF10【前編】
https://ameblo.jp/okada-saiko/entry-12389253395.html
イシューからはじめるFF10【後編】
https://ameblo.jp/okada-saiko/entry-12391307446.html

 うまい例を思い付かないので、戦闘の例で説明してみる。まず現代において、相手を殺す方法としての剣術。素人から達人まで、剣の腕前、マスター度には差がある。これが解決の質のベクトル。
 ところが一歩引いて、「相手を殺す」という解決案を考えると、剣術よりも銃というやり方の方がたやすい。特に自動小銃の殺傷力は圧倒的だ。(第一次世界対戦が塹壕戦になったのは機関銃の殺傷力を乗り越えるだけの技術がなかったから。ここから戦車が実用化された。)だから、「先に何が起きればよいのか?」「そこに向けてどんな選択肢があるのか?」そこをまず考えてから試行錯誤しないと、解決の質を上げていっても、「それ解決じゃないじゃん」となる。

 花王のコストダウンのやり方の紹介を読んで、なるほどと思ったのは、去年考えられる限りのコストダウン策をこうじたけれど、今年また新たな視点でコストダウン策を考えるとあったこと。調達一つとっても去年最適だった方法が今年もよいとは限らない。常に求める最適解は変わってくる というのが印象的だった。
 また、東海村での臨界事故は、作業合理性を上げるため、どんどん合理化していったために起きた。悲しいのは、なぜそんな面倒な手順でやれと仕様に書いてあったのか?現場の人は誰も知らなかったこと。このわざと手間がかかるようにしてあった仕様はウランが臨界に達しないで、高濃度にするために(1)筒状の容器でやる(2)少しずついろんな濃度で蓄積する、の二点が本質だった。そこが現場には伝わってなかった。だから、(1)球体容器に(2)一回に注いでよいとされた量を超えて、注ぎ、臨界事故となった。(発注者~下請け管理者~下請け労働者という構造による、情報伝達の悪さも気になる。)
 会社の仕事も往々にして前年踏襲に傾きがち。ベストじゃないかも知れないが、関係者の合意形成を再構築する手間を考えると、お互い楽なのだ。だから、イシューを考えず、先例踏襲の枠内で、合理化を目指してしまう。問題解決の根本には触れない。

 高校時代のSくんが地学のM先生に「要領が悪い」と言われたのが印象に残ってる。この解決の質とイシューの質の二つの軸で考えると、Sくんは解決の質には熱心だった。真面目で努力家で、一心に取り組んでいた。だけど、イシューの質は考慮していなかった。だから、地学のM先生には、努力していることはわかるけど、点をやるにしても、努力の方向性が悪いという意味で、「要領が悪い」と言っていたのかな?と今なら思う。
 そういうRyoji☆だって決して要領がよい方ではなかった。でも偶然ギリギリの所で、Ryoji☆的イシューの質が高い選択を選んできただなぁと感じる。特にコーチング仲間との出逢いは最大にイシューの質が高い選択だった。

で、改めて読み直して、ドキッとした文章を見つけた。

引用開始
「<考える>と<悩む>、この2つの違いは何だろう?」
僕はよく若い人にこう問いかける。あなたならどう答えるだろうか?

僕の考えるこの2つの違いは、次のようなものだ。
「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること
この2つ、似た顔をしているが実は全く違うものだ。

「悩む」というのは「答えが出ない」という前提に立っており、いくらやっても徒労感しか残らない行為だ。僕はパーソナルな問題、つまり恋人や家族や友人といった「もはや答えが出る・出ないというよりも、向かい合い続けること自体に価値がある」という類の問題を別にすれば、悩むことには一切意味がないと思っている(そうは言っても悩むのが人間だし、そういう人間というものが嫌いではないのだが…)

p4~5

引用終わり


あぁRyoji☆はまさに「悩み」の人だった。問題が解決出来るなんて、1mmも思ってなかった。この「悩む」と「考える」の違いがよく分からなかった。当時のRyoji☆用語では、たくさん「考えていた」から。
コーチング関係で出会う人たちに魅力的な人が多いのは、きっと考えていて悩んでないからだ。
こう思うと、コーチングに出会った頃の衝撃がRyoji☆には世界観を一変させる衝撃だったのがよく判る。何度も何度も、「本当かな?」と考えた。


  解決案が出なければ実行出来ない→やってから学ぶ。失敗から学ぶ

  何をすべきか?→大切なのはワクワク

  言われたことを遵守する→自己組織化。やっているうちに、自然と形になる。

悉くイシューの質を巡る考え方の違いだった。


細谷功地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」」
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も「コンサルタントの就職試験って大変なんだな~」ととらえていたけれど、「イシューの質が焦点なんだ」と思うと、より「そうだったのか!」と納得がいった。
 つまり、だいたいでいいので、大筋の可能性を詰めてしまうこと。例えば、日本中にある電柱の数。正確な数字を統計から上げようとしたら、地道な作業になるだろう。
それが、1万なのか?10万なのか?100万なのか?ざっくり目当てを立てられるだけで、大まかな規模と方向感はつかめる。それならば、推論可能なのだ。まさに、イシューの質だ。


NVCの4つの原則はシンプル。しかし、一つ一つがスキルがいる。特に三番目のニーズは最難関。言いたいことはわかるけど、ニーズを探るのはとても難しい。それは無理と、自己規制をかけて諦めてることが実に多い。でも、ここに拘ることで、NVCの道は拓ける。

 

なんだかFF10やりたくなって来た(笑)。