「自分の人生を創り出すレッスン」の出版記念イベント

8/26ロバート・フリッツ氏「自分の人生を創り出すレッスン」の出版記念イベントを視聴した。

ロバート・フリッツ氏の英語はシンプルで、所々理解できたし、Danna(田村洋一)の通訳も素晴らしかった。ロバート・フリッツ氏の在り方もよくて、明るく客観的に観るって姿勢にブレがなかったし、謙虚さが伝わって来た。

本を読んでると、細部に入り込んでしまって、どこがロバート・フリッツ氏の言いたい力点なのか?迷子になっていた。今回、質疑応答を通じて、「そういうことか?」と合点がいった。

一番読んでいてワクワクしたのは、ロバート・フリッツ氏の言う「マクロ構造」パターンをロバート・フリッツ氏が発見し、興奮している部分(p232)と、人々にその発見を伝え、なんとか不本意な構造を変えようと、介入するのだけど、失敗する部分(p234)。

構造を教育されたら変わるんじゃないか?パターンの順番を変えるように介入したら変わるんじゃないか?

でも、ことごとく失敗した。考察を深め、至った結論は驚くべきものだった。

ここでロバート・フリッツ氏は、絵を描くレッスンにヒントを得て、「観念なしで観る」、その難しさとの類似に気付く。
あぁ人は観念に引っ張られて、あるがままの現実からスタート出来ていない。だから、緊張構造が働かない。

そして、個人のアイデンティティと、創造物は関係ない。
さらに信念や価値観と、創造物は関係ない。逆に言えば、何かを想像する際に、信念や価値観を変える必要はない。

質問で、「自分の人生を創り出すレッスン」を送る上で必要とされる、3つの基本姿勢の「精神」に、「何も見つけようとしないで探求する」とあった(p48)。しかし、創り出す時には主体が必要ではないか?そこはどう考えるのですか?
この回答がふるっていた。陰陽図をDannaが書いてロバート・フリッツ氏の説明を補った。
始める時は当然主体が必要。だから陽。で、創り出すと想定外のハプニングが起きる。その時に現実を拒むのか?それも歓迎し、オープンで、そのハプニングも取り入れながら創造するのか?(後者が陰)となる。こだわらないと言ったのは陰のこと。


同じく3つの基本姿勢の「姿勢」の原語が、「オリエンテーション」と知って
驚いた。でも、説明を聞いていると、ここが実践時の分かれ目であると理解できた。

で、良治はここが違う。
友だちのNちゃんの息子さんにDくんがいる。Facebookにあげられる彼が繰り出すいろんなことは、常に彼が創り出す創造物で溢れている。彼にはそうせずにはいられない内なる声が宿っているようだ。
たぶんロバート・フリッツ氏も、自然と何か?を創り出さずにもいられない人だ。それは文章の端々に、それが普通、初期値として出てる。「次は何を創り出そう?」あれもこれも創り出したいことで充ちている。
良治にはその感覚が乏しい。

人がどう思ってるか?人にどう思われているか?そこに関心があり、周囲への警戒に全力を費やしていた。

結果ロバート・フリッツ氏が達した結論は、勝手に師匠と思ってるフォーカシングのアン・ワイザー・コーネルの結論と一緒だ。〃The Radical Acceptance Of Everything〃(すべてあるがままに)
インプロの「解決社長」と一緒。どんな突発トラブルが起きても、今の起きていること全てを肯定してみる。
何かを創造するとは、今ここからスタートすることだ。価値観から言って、現状がマイナスだとしても。

ロバート・フリッツ氏によると、ビジョンを描くのは、それほど難易度は高くない。難しいのは、現実をありのままに観ること。

そして、現実をありのままに観ることは、絵を描くトレーニングと一緒で、トレーニングすれば上達する。


ロバート・フリッツ「Your Life as Art 自分の人生を創り出すレッスン」Evolving 2020.7.
https://honto.jp/netstore/pd-book_30395158.html

アン・ワイザー・コーネル「すべてあるがままに フォーカシング・ライフを生きる」コスモス・ライブラリー 2007.8.
https://honto.jp/netstore/pd-book_02917484.html

エンパワメントセッションをやってみて

3月から受講しているポジティブ心理学コンサルタントの講座の最終課題の一つとして、エンパワメントセッションをやるというのがあった。

 

Facebookで「受けてもみても良い方。いらっしゃいませんか?」と友だち限定で呼びかけたところ、すぐにお返事をいただき、助かった。

こうして繋がれている友だちがいる ということは嬉しかった。

 

エンパワメントセッションはあくまでコンサルタントなので、コーチングではない。しかし、自然とやっていると、コーチング・モードになってしまった。(一生懸命、そうならないようにしていたにも関わらず。)資格コース中、一生懸命コーチングやろうとすれば、するほどコーチングが下手になっていく良治を自覚して、絶望的な気持ちになった。「あぁ、いつの日か?自然体でコーチングできるようになれたらいいな?」って願った日々を思い出して、そうしないようとしても自然とコーチングやってしまうほど、コーチングが身についたのだと思うと感慨深かった。

 

エンパワメントセッションは構造上、冒頭に、(1)最近の良かったこと。(2)なぜそれがよかったのか?を尋ねる構成になっていた。体験をお願いした方々がコーチだったということもあるのだろうけど、これが盛り上がった。

体験された方から「えっまだ本題じゃないんだ!」と驚かれてしまった。
ポジティブ心理学のフレドリクソンがおっしゃるには、困難な状態を乗り切るための心の在りようと、より幸せになるための心の在りようが違う とのこと。

コーチングだとどうしても最初になかなかうまく行かず思い悩んでいることを伺うことが多い。だからどうしても、前者の形になりがち。

ところが今回は、後者の形でスタートしたので、本題に入ってからの乗り越え力が全然違って感じられた。これはすごい。

ポジコンでのプレゼンを終えて

3月からポジティブ心理学コンサルタント養成講座を受講している。その最終課題として、10分のプレゼンがあり、6/9に行った。

やったことがない挑戦で、疲れ果てた。

本当は、「コーチングの導入セッションに心理教育として取り入れたらどうか?」と、今回作成した「責任者向け企業内研修で、強みに注目した内容を取り入れたらどうか?」の2つ作成しようと思っていた。でも、後者を作っただけで力つきた。(他の発表者と違い、文字だけのベタ打ち。カラーや写真。図一切なし)

今回他の3人のプレゼンは、図やカラーが入っていた。良治は文字だけ。かつ、詰め込んで書いたので、わかりにくかった。
次回は字を減らす。図やカラーリングするを試みたい。

全体のデザインとしては、「『強み』の心理教育に絞って小さくスタート。行った研修の評判に合わせて、レパートリーを拡充」という発想は、「よさ」を称える組織風土が低い中では、よいのでは?と言っていただけた。(ホッ)

プレゼン中のリソースとしては、熱意や愛情が感じられたとフィードバックをいただいた。ありがたいことだ。

日本で公共図書館司書をするって難しい。一般論としては、公共図書館の司書は一般公務員と同格の扱いのため、ずっと図書館勤務が可能ではない。役所のジョブ・ローテーションの関係で、4~5年で別の役所事務に異動になる。
指定管理者制度が始まり、民間企業勤務であれば、司書はずっと続けられることになった。しかし、給与は高くないし、土日出勤ありのシフト制。人手の関係で勤務先も一年単位で代わる可能性が高い。働き続けたいなら、管理職業務をすることが求められる。司書としての専門技能を向上させても報われない可能性が高い。

良治が図書館好きってのもあるけど、その良さを次世代へ伝えたい。良治的には、図書館は社会の善き意思の現れだと信じてる。

仕事としてけっして恵まれていない。でも、だからこそ、せめて仕事自体が報酬として、色々大変だけど、遣り甲斐はあると感じてほしい。

今回の学びで示されたデータの中に、「上司がどんな存在だと部下は遣り甲斐を感じるか?」があった。何も見てないが最悪。観察していて強みに声掛けでグッと遣り甲斐が上がった。当たり前だけど、やったことへの認知だけで、「次やってみよう!」になる。

追伸:6/18日本経済新聞の一面に、日本は他国と比較して、この10年。社員教育に金を使わなくなったとグラフあり。良治の実感と合う。

幸せを目指す

3月からポジティブ心理学コンサルタント養成講座を受講していて、最終課題のプレゼンに臨もうとしている。

書きながら感じたのは、主張と良治のBeingの不一致がこれまでで、だから行動まで至らなかった。やっと良治自身に、幸せを目指すことへの許可がおり、こうして書いているんだなって感じた。(そうは言っても不慣れだし、抵抗があるので、ひねり出すのに偉く時間がかかる)

VIAの強み判定で、「誠実さ」を良治は持っている。信条として自身が納得出来ないことを取り入れることが出来ない。自己納得が欠かせない。

自己了解に至れば、血肉となって、自然に発揮出来る。

合わせて、犠牲者から創造者(DDTからTEDへ)の転換が、良治の中では難しい。

理屈としてはわかるものの、クリエイター(創造者)としての良治のBeingが掴めない。何かを創造するとなった途端、パッタリ動けなくなる。

良治の思考パターンとして見えて来たのは、まず観察し場を見極める。(安心安全か?確認する)で、感じ取る。仮説をたて、言語化し、伝える。
だから、想像の翼を広げて自由に発想するって力が極端に薄い。現状の暫時改善なら、何とかだけど、根本的発想転換は弱い。

だけど、人生のフェーズにおいて、創造者ロールの良治を再発見する準備が整ったとも言えるかも知れない。

卓越したコーチとは?

卓越したコーチとは、クライアントが求める適切なタイミングで簡素な問いを発することができる人。

売れているコーチは、マーケティングがうまいコーチであり、それは必ずしも卓越したコーチではない。

卓越したコーチと言えども、常にその力を発揮出来ない。


被援助者が少しずつ自身にとって必要なステップを経ることで変容していく。(時には大きく)だから、援助者が出来るのは、必要なタイミングで、適切な問いを投げ、被援助者の自己探求を促進すること。それが他者が出来る最大の援助。変容を「起こす」「起こさない」は、被援助者自身にかかってる。

だったら山崎さんの最新刊のように、被援助者が自らに発している問いを代えれば変わると言ってよさそうだ。しかし、そうじゃない。
「なぜ成人の発達理論のように、被援助者は健やかに発達していかないか?」には理由がある。

ストーリーにやられてしまっているからだ。

DDTと言い、迫害者・被害者・救済者のロールを周囲に割り振り、そこに嵌まっている。


山崎啓支さんが「コーチング・ハンドブック」で、「センス」というのは、被援助者が語るストーリー(意識)ではなく、無意識にある変容を求めるニーズを指摘できるか?だと思われる。山崎さんの言うセンスを押し進めると、答えは援助者にあり、被援助者はそれに依存するって可能性もありえる。だから、卓越したコーチは適切なタイミングで適切な問いを発することが出来る人なのだ。自律促進してこそコーチ。

DDTからTEDへ。迫害者・被害者・救済者のロールグルグルから、挑戦者・創造者・コーチのロールへ。


ポジティブ心理学の知見は、心理的マイナスから回復する時に有効な方法て、0からプラスに増進する時のメカニズムが違うこと。
例えば、どうやったらより夫婦関係が円滑になるか?危機に陥ってからの回復のメカニズムと、より親密になるではメカニズムが違う。

幸せに到るには、関係性・自己効力感・自律の3つが揃っていること。(デジの自己決定理論)

コーチングとは、ある特殊な関係性を被援助者と築くことにより、自己変容を加速する試み、と言えるだろう。自律を促し、「失敗してもよいからやってみよう!」を推奨する。(自己効力感)結果、幸せを実感する。「コーチがよい問いを発する」より、「被援助者に今必要としている変容が起きるか?」が重要なのだ。(山崎さんの表現だと、どこに焦点を合わせているか?)

そこで援助者の在り方で大切なのは、被援助者にはリソースが「在る」という視点。「ブランク・アクセス・クエスチョン」(「それって何でしょうね?」)を発する時に、全くの真空に「何か?見つからない?」と訊いているのではなく、「まだ言語化されない何か?がそこにありますよね?」って訊いてる。

別にクライアントに限らず、私たちは一般的に、得ているもの、在るものには目もくれず、足りないもの、無い物に焦点を合わせがち。特に相談するような悩みの場合、視野狭窄による袋小路状態に陥っている。だから、援助者が、既にあるものに、焦点を合わせ、自己拡張へシフトしやすくし、自律からの「失敗してもいいからやってみよう!」を促すことで、大きな変化を起こす。

山崎啓支「コーチングハンドブック NLPで最高の能力が目覚める 知識と経験を最大化するセンスの磨き方」日本能率協会マネジメントセンター 2016.9
https://honto.jp/netstore/pd-book_28018427.html

「ギフト」に生きる

HYさんのご紹介でIさんの「『ギフトに生きる』生き方」を伺った。なんでもIさんの教え通り、コーチングをギフトで提供しだしたら、3か月後、クライアントさんが8倍に増えたとのこと。ちょうど「クライアントさんを増やす」ということで悩んでたので、よきタイミングだった。

聞いているうちに、荒唐無稽じゃなくて、実に理に叶っているとわかった。(実は「副業/兼業コーチングサミット」に参加された皆さんに、この会を紹介した。直感として、これは従来聞いて来た「理に沿ったマーケティングによる集客とは何か?違う」と感じたから。するとサミットに参加されたお二人も参加して下さった。これもギフトに沿った振る舞いと解釈できる。)
(以下に述べるのは、Ryoji☆が受け取った内容で、Iさんの主張とは異なるかも知れない。)

ギフトに生きる上で、一番大事なのは、「無理しない」。そして、「自分を満たす」こと。この2つは必須。もしこの辺りの感覚があやふやなら、セルフケアに専念した方がよい。

聞いていて「そうか!」と発見した。「無理しない」と自己重要度が低い。ギフトとして差し出す内容を「受け取る」「受け取らない」を相手に委ねられる。それでいてギフトがどうなったか?心理的こだわりがなく、スッキリしていられる。総じて軽い。清々しい。

リフレフティング・チームが機能するのは無責任な第三者の意見が、メタ認知として語られ、クライアントが自由に選べるからだ。自己決定権はクライアントにある。自律なのだ。反対にCoActiveCoachingのよさでもありわるさでもある、コーチとクライアントの意図的協働関係。コーチはついつい善意で、「こうした方がよいんじゃない?」ってクライアントに提案してしまう。善意であるが故に、クライアントはコーチとの関係を壊したくなくて、ついつい同意してしまう。建前としては、クライアントは拒否できる。しかし実際コーチとクライアント二人の密閉空間で、悪感情を持たれないように拒否するのは勇気がいる。よい面というのは、これだけ聴いてくれるコーチが言うのだから、納得出来ないけど、そこをワークしようか?と一歩踏み出す可能性が高まるから。(カウンセリングでコンフロンテーションって技法はこれを意図していると思われる。Ryoji☆としては、自律を推したい。それもコーチとしての選択肢と知ってはいても、Ryoji☆はやらないだろうなって思う。ややこしいのは、その可能性を知ることで、関係性絶対視点から関係性が危機に陥ったとしてもなお伝えたい境地があるって深い学びだということ。)

で、自分が満たされていると意識セットがよい。だからギフトになる。
意識セットが悪いと、伝えられた側はダブルバインドになる。言ってることと在りようが違う。だから、クライアントは自律よりも関係性をおもんばかって判断してしまう。コーチにとって厄介なのは、ここは厳しく自己管理しないといけない。意識セットは自己管理の一環として大事。(これもややこしい。これを意識し出すと出来ない自分に直面する。大事なのは「無理しない」。喜怒哀楽のまま。自然体でいればいい。)

こうした2つの前提条件の上で、ギフトに生きるには2つの方向がある。一つは「ギフト」と聞くと思い浮かべるように、私から相手にギフトすること。もう一つは相手から贈られたギフトを気持ちよく受け取ること。

前者で私たちが縛られてしまうのは返報性。私がギフトした相手から私にギフトを返して下さいと考えてしまう。「ギフトに生きる」はそうは考えない。
例えば、HYさんが開いたイベントで急に気持ちが悪くなった方がおり、車でその方をご自宅までお送りした。その月はたまたま持ち合わせが少なく、手元のお金がなく厳しかった。それを聞いたIさんが「私がその交通費。ギフトしましょうか?」と申し出た。 HYさんはお断りしたそうだ。

ここで申し出を受けていたら、「ギフトに生きる」が回った。つまり、ギフトした相手から返ってくるのではなく、別の誰かからギフトが巡ってくると信じること。

今回話ながら、私たちは後者が下手だと頷いた。謙遜したり、謙虚であることは美徳だ。だからギフトに対して、「受け取らない」というのもわかる。だけど、心から感謝している時に差し出したギフトを受け取って貰えたら、ギフトを送ったコチラも嬉しくないだろうか?私たちはもっと上手にギフトを受け取り、その恵みに感謝を巡らしたらどうだろう。

聞いていて見えて来たのは、エネルギーの循環。感謝の想いが巡ってる。
これって自然の恵みを戴く時の態度と一緒だ。豊かさに感謝し、取り尽くすのではなく、一部を感謝して戴く。大部分を残すのは礼なのだ。
こういう気持ちは連鎖を呼ぶ。自然とクライアントさんを紹介したくなるのも通りだ。ギフトを贈られたら返したくなるのが、人の性なんだから。

Iさんは場からの質問に丁寧に答えて下さった。
その姿勢も「私が持ってる知識で役立つものはみんなギフトします!」って精神に溢れていた。(だから思わず、「それってすごい知識らしい」と関心が湧いた。)
面白かったのは、「飽きっぽいんです」って、明言されていたこと。だから、物事を継続するようなことでは役立ちませんとハッキリおっしゃっていた。
これも理に叶ってる。人には強みがあって、強みを活かしていると輝く。でも苦手なことをやらせても生産性は低いし、本人も辛い。だから、どこが自分を使って貰うのに適しているか?自覚して、キャリアを歩むのは大切だ。

Iさんのお金の捉え方の変遷も興味深かった。今でこそ定期的なお金を貰える口があり、かつ、定期的にお金を出してる所もある。
でも若かりし時、「仕事の意味が大事で、お金なんて大切じゃない。卑しい」と思っていたら、物の見事にお金が入ってこず、転職せざろう得なかった。

江戸時代三井越後屋三井高利が始めた、「どんなお客さまにも、同じくお安い値段で提供します」のやり方に私たちはすっかり慣れきってしまったけど、アラビアのバザールの価格の付け方は違う。売り手と買い手がせりで希望価格に近づける。で、双方満足を得る。一物多価。ただし、商品知識がないとぼったくられる。駆け引きのエネルギー。

「副業/兼業コーチングサミット」で、副業としてコーチングフィーを貰う際、「お金貰ってよいんだろうか?」って声が出ていた。

お金をどう扱うか?は難しい。

かく言うRyoji☆も、クライアントさんから「コーチングフィーが安すぎます」って言われたくらい。

でも「ギフト」なんだ。感謝のエネルギーを循環させてるんだと思えば、軽くなる。逆にギフトの受け取り上手を目指したい。

 

スリー・グッド・ティングスと「それはなぜか?」を一週間記録して

ポジティブ心理学の演習で一週間毎日、その日の3つのよいことを書く。加えて、3つのうち一つ。なぜよいことが起きたか?理由を書く。を行った。

正直、終わってホッとしてる。この演習は居心地が悪かった。少なくとも10分くらいは「今日は何があったかなぁ?」と悩んでた。

まず困ったのは、どういうレベルの「よい」なのか?

よっぽど主催者に質問しようか?と思った。


「うーん」と悩んで、「こんなしょうもないことでええんか?」と悩む。何か自ら意欲を持ってDoしてればよきにつけ、あしきにつけ、どこかしら「よかった」と思えなくもない。でも、ダラダラと無目的に受動的に過ごすと、「よい」が見つからない。

「待ちぼうけ」の歌の「守株」や、空が落ちてくるんじゃないか?と悩んだ紀の国の人のエピソード「杞憂」を知った時、悩むことの無意味さについて考えたことがある。結論としては、人は楽観的でないと生きて生けない生き物なんだと思った。悩みまくっていたら、生活出来ない。ある面能天気さ、楽観さが必要だ。

すごくつまらないことを「よい」とするのに、心理的抵抗がすごかった。

実は大分前、たぶん10年前くらいからポジティブ心理学には興味を持ってはいた。
しかし、学びが進まなかった。幸せになるのをRyoji☆自身に許可するってことが、どうしても引っ掛かった。
セルフケアして充たされるってのも、どこかしら罪悪感が残り、浸れなかった。

今回ようやく「なんとかなるかな?」と思ったけれど、やっぱり受け入れがたさは健在だった。

理論として、こうしてよいことにフォーカスしていると、自然と視野が広がる。だから、解決も見つけやすくなるってのは理としてわかる。
でも、居心地の悪さ。収まりの悪さは相変わらずだった。

人の性質は、そうは変わらない。